(二)『奈良絵本百人一首』(『吉田本』)の出現

『奈良絵本百人一首』
『奈良絵本百人一首』(吉田本)
(右:天智天皇、左:持統天皇、江戸時代前期、
『百人一首 為家本・尊円親王本考』)

ここで検討しなければならないのが、慶長、元和年間(1596~1624)の作品とされている手描きの百人一首画帖、吉田幸一が画像を公開した『奈良絵本百人一首』(以下、『吉田本』と略記)[1]である。これは箱蓋裏の「伏見宮邦房親王 新百人一首」とする記載に依って伏見宮邦房親王の作とされ、同人の没年が元和七年(1621)であることから、江戸時代初期に出版された歌人画入りの百人一首版本の始まりである『素庵百人一首』と前後する時期のものとされている。ただ、『吉田本』は縦二十三・三センチ、横十七・一センチ、縦横比率七十四パーセントの長方形の袋とじ本である。なお、石川透はこれに類する所蔵の奈良絵本『百人一首』二点(以下、『石川本A』ないし『石川本B』)を紹介しているが、寸法は縦二十三・五センチ、横十七・三センチのものと、縦二十三・八センチ、横十七・七センチのものである[2]

『吉田本』の表記を見ると、三條院の和歌は「うき世」であり、源俊頼朝臣は「山颪」であり、俊恵法師は「明やらて」である。歌人名は「中納言敦忠」「前大僧正行尊」「前中納言匡房」「正三位家隆」である。つまり、この画帖が手本としたものは、『素庵百人一首』ではなく、もう少し後の時代の、慶安三年(1650)刊の『尊圓百人一首』やその文字表記をそっくり踏襲した延宝八年(1680)刊の菱川師宣『小倉山百人一首』であったのである。一方で図像を比較検討してみると、ここでも版本とくに『尊圓百人一首』との一致が著しい。要するに、『吉田本』は、伏見宮邦房親王の書画とする吉田の鑑定にもかかわらず、実際は、主として『尊圓百人一首』を手本として、和歌の表記では「此の世」をすでに「うき世」に転換させており、図像では赤染衛門や待賢門院堀河の繧繝縁(うんげんべり)の上畳を廃止している。これらの特徴は、この作品が、歌人の画像での左右の反転や持ち物などの写し落としが相当にある江戸時代前期、元禄年間(1688~1704)に近い時期の町絵師の描いた「手鑑」であることを示している[3]。図像の質も、歌人は顔面と衣裳だけが描かれていて、中側の腕、掌の所作がうまく表現されていないものが多い。衣裳の色彩も単調で退屈な図像が多い。驚くほど精巧な細工が時代の特徴であった江戸時代初期(1603~52)のものではなかったのである。なお、石川透[4]は、この画帖の筆跡を研究して、それが伏見宮邦房親王のものではなく、江戸時代前期(1652~1704)の朝倉重賢のものであることを突き止め、画帖の成立期を延宝年間(1673~81)前後とした。私の歌人図像の解析から得られる結論とほぼ一致している。

結局、『吉田本』をもってしては慶長、元和年間(1596~1624)の百人一首画帖の存在は証明できていないことになる。吉田本の年代の測定は、もっぱら箱蓋裏の「伏見宮邦房親王 新百人一首」という表記に依拠しているが、江戸時代初期(1603~52)には『新百人一首』という歌集が存在しており、当時の常識としては、この『新百人一首』と『小倉百人一首』とは別種の歌集である。伏見宮邦房親王が筆を染めた『新百人一首』の一冊が、歌人図像が付いていたかどうかは分からないが、それが元々はこの箱に収められていて、後代、どこかで現存する『吉田本』の『百人一首』と入れ替わってしまったという事態も十分に想定できる。「鰻重」と書かれた箱の蓋を取ったら中身は「天婦羅重」だったということであろうか。

ただし、このように評定したからと言って、私の吉田幸一に対する敬意は揺るがない。吉田は、この画帖の発見を機会に、百人一首の歌人絵に対する研究を深め、大著『百人一首 為家本・尊円本考』を表した。この書は、この領域での研究としてはもっとも緻密で優れたものといえる。私が特に感銘したのは、吉田が、『素庵筆百人一首』、『尊圓百人一首』、『百人一首像讃抄』などの刊本を駆使して比較対照の研究を深めたことと、国会図書館に眠る菱川師宣の『小倉山百人一首』を初めて比較の素材に加えたことである。吉田は、上に書いたように入手した画帖の鑑定ではミスをしたが、その研究では大きな成果を上げており、特に、『小倉山百人一首』という最重要な文献を初めて世に出した功績は不朽である。また、『素庵百人一首』にしても、『小倉山百人一首』にしても、それまでは利用が困難であったものが吉田の著作中に全文が採録されていることで、以後の研究にどれほど役に立つたかも計り知れない。これは、史料のデジタル公開の時代になって、跡見学園女子大学の『素庵百人一首』二種や、国会図書館の『小倉山百人一首』が離れた場所からでも簡単に閲覧できるようになったのでありがたみが薄れたように思われるが、私は今でも後学の者として吉田への感謝を忘れてはいない。このことを明確に記しておきたい。


[1] 吉田幸一『古典聚英8百人一首 為家本・尊円親王本考』、笠間書院、平成十一年。

[2] 石川透「奈良絵本『百人一首』について」『藝文研究』、慶應義塾大学藝文学会、平成二十三年。

[3] 須山恵美「百人一首の歌仙絵について」『奈良絵本・絵巻研究』第十一号、奈良絵本・絵巻国際会議、平成二十五年、一頁。

[4] 石川透、前引注7「奈良絵本『百人一首』について」、二二六頁。

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です