狩野探幽他『百人一首手鑑』
狩野探幽他『百人一首手鑑』
(右上・ 天智天皇、左上・持統天皇、
下・式子内親王、『歌留多』)

百人一首の「歌仙手鑑」としては、狩野探幽が弟子を動員して制作した『百人一首手鑑』が古くから有名である[1]。これには、鷹司関白左大臣房輔らの公家の能筆家の書があり、絵は、天智天皇、持統天皇、後鳥羽院、順徳院等、二十名の重要人物は探幽自身が描き、残りの八十名は狩野一門の安信、益信、常信、無記名の者が描いている。書も絵も一流であり、極めて美麗であることから、これが江戸期の「歌仙手鑑」の代表作とされることが多いが、それには疑問がある。この手鑑は寛文年間(1661~73)の作品とされている[2]。だが、「歌仙手鑑」そのものを見れば、三十六歌仙を題材にしたものの方が時期的にも先行しており、また盛んでもあった。そして、こういう画帖に載せる歌人絵においては、土佐派の大和絵の先例、特に三十六歌仙絵が大きな意味を持っており、先例に倣って模倣するものが歌仙絵の伝統に忠実な正統の絵であるとして高く評価された。それは、薄田大輔[3]が述べたように、江戸時代初期(1603~52)、前期(1652~1704)の宮廷絵師を律する厳しい掟であり、歌仙絵を描くときには、土佐派が所持する鎌倉時代以来の歌仙絵の作品を実見して模倣する必要があり、当然ながら、土佐派の了解を得る必要があった。これに、江戸時代初期(1603~52)、土佐光起(みつおき)を中心とする土佐派復興の動きが重なり、狩野探幽以下の狩野派が幕府の御用絵師となって江戸で勢いを増したのに対抗するように土佐光起(みつおき)が「絵所預」に任じられて京都の後水尾朝廷で宮廷絵師の力を得る[4]と、歌仙絵は土佐派の営業戦略上の最重要なジャンルとなって独占権の主張の対象とされて、狩野派などの他の流派の絵師による制作は自由ではなくなった。そういう意味では、探幽と同年代、土佐派の流れを汲む、住吉具慶の『百人一首画帖』のほうが正統な代表作であり、狩野派のそれは土佐派の権威を上回ろうとする挑戦作ということになる。狩野派が土佐派の覇権のどこにどのように挑戦したのかについては次章の別稿に残す。

『時代不同歌合画帖』
『時代不同歌合画帖』
(住吉具慶、狩野秀信、江戸時代前期)

探幽の「歌仙手鑑」については、『百人一首画像探幽筆』(東京国立博物館蔵)、『探幽斎図百人一首 乾』(東京大学図書館蔵)がある。両者とも写本であり、他にも、これに類するものがあり、江戸狩野派で多くの絵師によって模写されてきたことが想定される。「手鑑」としての豪華さでは上の『百人一首手鑑』に及ばないが、これらのものの祖本が探幽自身の作であるとすれば、探幽研究の史料としては、自作が二十枚の『百人一首手鑑』よりも百枚すべてが自作のこちらの作品の方がはるかに重要である。そして、この二点の写本を見比べると、いずれも書が貧弱で、かつて安村敏信が「歌意絵、和歌、歌仙のバランスが悪い」と述べたとおりである。『探幽斎図百人一首 乾』は、それでも散らし書きでそれなりに力が込められているが、『百人一首画像探幽筆』は、ほとんど、模写者が記録のために自身で書き添えたという程度の出来である。安村は、さらに、跡見学園女子大学蔵の『探幽百人一首画帖』にふれ、「こちらは、上部に和歌があり、その下に歌意絵、歌仙図と続いて、バランスがとれているので、こちらの形が祖本に近いかもしれない」としている。

狩野探幽歌心帖表紙
狩野探幽歌心帖表紙

この点で私がかねてから注目しているのは、個人蔵の『探幽筆百人一首歌心帖』である。これも探幽絵の写本であるが、歌意絵と歌人像だけで構成されており、和歌の書は別紙にあって添付されている。察するに、書は別に能筆家に依頼するべく、探幽自身は遠慮して取り残しておいたのであろう。そして絵では、歌意絵が他の写本よりも丁寧で、歌人像とよく合っている。私は、この写本の方が祖本に近いと考えている。そして、これと、いわば完成品である上の『百人一首手鑑』とを比較すると、野心的な天智天皇像などの重要部分はぴたりと一致するが、前半五十人の歌人像には相当の変化があり、後半五十人になるとあまり変化がないという奇妙な関係にあることが分かる。但し、『百人一首手鑑』の制作に際して探幽は、巻頭の天智天皇図、持統天皇図、巻末の後鳥羽院、順徳院など、天皇、皇族の図像はほぼ全て自ら筆を染め、弟子たちには任せていない。そこにも、探幽の皇室問題重視の考え方が良く示されている。崇徳院の上畳の存否は重く受け止めなければならない。

狩野探幽歌心帖猿丸太夫
狩野探幽歌心帖猿丸太夫
狩野探幽歌心帖天智天皇
狩野探幽歌心帖天智天皇
狩野探幽歌心帖定家
狩野探幽歌心帖定家
狩野探幽歌心帖小野小町
狩野探幽歌心帖小野小町
狩野探幽歌心帖崇徳院
狩野探幽歌心帖崇徳院
狩野探幽歌心帖紀貫之
狩野探幽歌心帖紀貫之

[1] 安村敏信「狩野探幽筆百人一首手鑑」『国華』第千二百八十四号、平成十四年、五一頁。千艘秋男「百人一首絵小考―絵巻と扁額と―」『東洋学研究』第四十一号、東洋学研究所、平成十六年、一頁。なお、『歌留多』、平凡社、昭和五十九年、八頁以下にカラー図像二十七点がある。

[2] 安村敏信「狩野探幽の百人一首絵」 『百人一首への招待、 平凡社、平成二十五年、一八頁。

[3] 薄田大輔「十七世紀官画派の歌仙画と歌意図」『歌仙―王朝歌人への憧れ』、徳川美術館、平成二十五年、一二七頁。

[4] 岩間香「土佐光起と禁裏絵所の復興」『日本美術工芸』六百五十六号、日本美術工芸社、平成五年、三六頁。実方葉子「神話なき神話『絵所預土佐光起』の遍歴」『美術フォーラム21』創刊号、平成十一年、三五頁。

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