グロバーやヒムリーよりも少し遅れて中国のマージャン牌を欧米に紹介したのが、ウイリアム・ウイルキンソン(William Wilkinson)である。ウイルキンソンは、イギリス人で、オクスフォード市のデイビス中国語学校を1879年に卒業して中国に渡り、1880年から1918年まで、三十九年間、中国各地のイギリス領事館で事務を取っていた。

ウイルキンソンは、少なくとも三組の麻雀牌を欧米にもたらした。彼は、この牌を「中發」と名付け、その意味を「ヒット・アンド・ゴー」であると説明している。「中」は的中の意味、「發」は出発の意味だと理解していたようである。「中」は、もともとは東南西北の方角を示す牌の中心と考えられていた。その「中」が、的中、命中の中へと意味の変化を遂げたことによって、「發」と結びつき、「白」と結びつき、三元牌という新しいグループを形成したというのである。「中」はヒットであるというウイルキンソンの理解は、こうした、現地の空気の変化の目撃証言のように見える。

なお、ここで脱線した余談になってしまうが、今日では、三元牌は、日本では「白」「発」「中」の順序で呼ばれ、中国では「中」「發」「白」の順で呼ばれている。両国における順番が相違していることの趣旨については日中双方で種々議論されているが、いずれの論者も、中国では三元牌の成立の当初から「中」「發」「白」の三種がセットで成立しており、日本では「白」「發」「中」の順番でセットで成立したという前提で議論している。残念だが、それは歴史を誤解した迷論争であり、議論の前提となるべき事実が崩壊している。正解は、中国では、まず初めに全方位を意味する「中」があり、後に寧波市で「發」が工夫されて「中發」麻雀牌になり、そこにさらに予備牌の「白」が加わったという歴史があるので中国では「中」「發」「白」の順序で考えられており、それが、大正時代(1912~26)に日本に伝わってきた時には、上海の井上紅梅も、北京の榛原乾一も、大連の中村徳三郎も、天津の林茂光も、皆、中国流の「中」「發」「白」の順番を踏襲していたのに、昭和前期(1926~45)に「白」「發」「中」の順番になったという次第である。ただ、中村は、著書の『麻雀競技法』[1]で、本文の説明では「中」「發」「白」で一貫しているが、清朝の時代の宮中で、宮内官や宮女の間で麻雀が発展し、その際に、「牌の中の白板(パイパン)、緑發(リユイフア)、紅中(ホンチユン)は夫々白粉、緑鬢、紅顔の事で宮女に擬(なぞら)へて作られたのであり」と書いており、また、巻頭口絵の麻雀牌の写真では上から「白」「發」「中」「東」「南」「西」「北」と並べて撮影している。同書が出版された当時には、大連のカメラマンは「白」「發」「中」の順だと考えていたのであり、この辺に、華北、満洲の日本人社会で三元牌の順番の変動が起きて、それが日本国内に波及したものと推測される。従って先人たちのこの議論は、時には日中両国の文化的背景にまで言及する大激論になったりしたが、史料的な裏付けのない後付けの理屈の展開に過ぎない。

もう一点、余談ついでに述べておくが、「發」文字牌の發の字は、中の部分に、左は弓、右は矢が書かれている。二十世紀の麻雀牌では、この文字も使われているが、左に弓、右に殳と書かれている「發」の文字を使った牌が多いのであって、ウイルキンソン牌は古いタイプの發である。この「弓矢発」については、浅見了主催のウェブサイト「麻雀祭都」の「歴史18」[2]で検討されている。浅見は「遊戯史学会」の有力なメンバーの一人であり、麻雀の歴史研究では私の同志であった。このウェブサイトはもっとも誠実に麻雀の実証的な研究を志したもので、その精密さと実証性は特筆に値することを記録しておきたい。

閑話休題、「中發」の遊戯具は、そのうちの一組が、当時イギリスで最も活発なカルタコレクターであったシャーロット・シュライバー(Charlotte Schreiber)のコレクションに収まり、後に、このコレクションが一括して大英博物館に寄贈されたので、今日では、大英博物館の所蔵品となっている。

ウィルキンソン牌
ウィルキンソン牌

1925年に書いたウイルキンソンのメモによると、彼は1889年に寧波市と上海市で各々「中發」牌を入手しており、大英博物館にあるのは、寧波市で入手したものである。上海市で入手した二組目の麻雀牌の行方は判然としない。三組目の牌は、少し遅れて1892年に寧波市で入手したものであり、1893年のシカゴ万博に出品するように天九牌や各地の馬弔(馬吊)紙牌とともにキューリンに送られた。万博の後に、ウイルキンソンは、これらの紙牌、骨牌をキューリンの勤務先であるペンシルバニア大学博物館に寄贈しているが、この麻雀牌のその後の消息は不明である。したがって、ここでは、大英博物館に残されている第一の麻雀牌をウイルキンソン牌と名付けておきたい。

ウイルキンソン牌は、縦二十三ミリ、横十九ミリ、厚さ十ミリで、もともとの収納用の木箱がついた状態で残されている。この箱は、上蓋がスライドして開くタイプのもので、その上蓋と横面の一つには、右から左の順で三箇所、長方形の枠内に「横相」「中發」「烏木」と縦に二文字ずつ黒色に押印されている。横の面の場合は、さらに、三箇所のスタンプの間に、二文字ずつが書き込まれている。それは、「加厚」「字詳」である。すべてを読み込むと「烏木中發横相」「字詳加厚」になる。黒檀を使用し、「中」と「發」の加わった、文字や図像の彫が詳らかで、牌全体が分厚くて使い勝手が良い、という製品の品質の宣伝の文句である。この文字がある骨牌収納箱の発見によって、ウイルキンソンがこれを「中發麻雀」と呼んだ現実的な根拠があったことが分かる。

中国の伝承では、麻雀牌は、十九世紀の後半に浙江省、寧波市での遊人たちの間で今日の形に定まったとされている。それを指導したのが陳魚門という寧波税関の役人であるとも言われている。また、麻雀牌の花牌の歴史では、花牌が次々と加えられたので錯綜し、混乱が生じていたので、寧波市の人々がこれを大胆に整理して今日の姿にしたと言われている。寧波市での整理改良の前の麻雀牌を「花麻雀」と呼び、寧波市での改良を経たものを「清麻雀」と呼ぶ。「白」「發」「中」のある今日の麻雀牌が、かつて「寧波麻雀」と呼ばれたのもうなずけるところがある。ウイルキンソン牌の発見によってこうした伝承が裏付けられたことになる。

「花麻雀」から「清麻雀」への転換は、麻雀という遊技にとってはとても大きな変革であり、それが行われるには大きな社会的な流れが前提になる。1870年代の寧波市は、太平天国の乱を鎮圧した外人部隊の活躍によって揚子江(現在の長江)流域の地域で強い影響力を持つようになったイギリスなどの西欧諸国との間の茶、絹、陶磁器などの交易の貿易港であり、この交易に関わったいわゆる買弁商人が好景気で我が世の春を謳歌する地域であった。この経済力を持った階級の人々であればこそ、新しい麻雀の遊技法を開発し、周囲に拡散させる力があったのであろう。日本で、明治前期(1868~87)に、対外貿易で潤う横浜市から、新しい賭博系のカルタ遊技が起こり、新しい意匠のカルタ札、今日まで続く「八八花札」が登場したのと同じような現象である。

ウイルキンソン牌は、今日の麻雀牌の直接の祖形であるといえる。その図柄上の特徴は、筒子牌では、「一筒」牌が二重線の円の中側に小さな丸が四個描かれる独特のタイプのものであること、「二筒」牌の二個の筒子が離れて彫られていて、青と緑に彩色されていること、「六筒」牌、「七筒」牌ともに下部の四筒が赤色に彩色されていることである。索子牌では、「一索」牌はチンフー(青蚨)であること、「三索」牌は上部の索子が下部の二個の索子の間に食い込んだ形の三索であること、「六索」牌は六個の索子が全部緑色に彩色されていること、「八索」牌は八個の索子が八方開きのV索であること、などである。万子牌は万字を用いていること、「五万」牌は伍の文字であることである。文字牌では、「南」字牌で、中にある羊が上部少し突き抜けた文字であること、「發」字牌で、左が弓で右が矢の發の「弓矢発」であることである。

ウイルキンソン牌は全部で百四十四枚であり、キューリンの1893年の前掲論文では、これには花牌が一切含まれていない。なお、「一索」「三索」「八索」の牌がまだ前代の図柄のままである。ここが改まったとき、近代型の麻雀牌の図柄が成立したことになる。


[1] 中村徳三郎『麻雀競技法』、千山閣書房、大正十三年。

[2] http://www9.plala.or.jp/majan/his18.html

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