(三)「百人一首歌合せかるた」の世界での女性書家、女性絵師の活躍

日本の文化史を振り返ってみると、平安時代は王朝文化の中で女性がもっとも活躍した時期として特徴づけられる。紫式部や清少納言をはじめ、多くの女性の活躍が長く伝えられている。そして、それに次いだのが安土桃山時代と江戸時代初期であった。この時代にも、戦国時代の混乱と悲劇を乗り切った多くの女性が自立して活躍し、その名前が歴史に残り、今日まで伝えられている。そういう中で、百人一首かるたの発祥と展開に関しても、女性の活躍が目立っている。

かるた関連で最も活躍した女性といえば、それは「しうかく院」であろう。細川家の家中の人で、歌合せかるたの始原の姿である「古今の札」の遊技を思い立ち、それに用いる小型色紙のカードを考案した人物である。「しうかく院」の正体はよく分からなかった。『当家雑記』には二か所その名前が登場し、かるたに関してはおおむね慶長五年(1600)前後に記録されたものと考えられていたので、当時、細川家の領地であった肥前中津城内で生活していたように考えられていたが、漠然としかわからなかった。ただ、今日では、前述の様に、藤島綾の研究によって、細川忠興の側室、「秀岳院」であると判明している。。

これに次ぐのが、書家では小野於通(おつう)、沢田吉(きち)、長谷川妙躰(みょうてい)である。この三名は、江戸時代初期の女性書家[1]として著名であり、「女の三名筆」とされている。

小野於通『女筆春之錦』 (冒頭頁、末尾頁、江戸時代中期)
小野於通『女筆春之錦』
(冒頭頁、末尾頁、江戸時代中期)

まず、小野於通(おつう)である。於通は播州の出身で、京都で活躍し、宮中との縁もあり、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に重用され、慶長、元和年間(1596~1624)には豊臣家の淀や嫁の千姫の書道の師となり、また徳川秀忠の娘、和子(まさこ)の後水尾天皇への輿入れのプロデュースを手掛けるなど、女性文化人として時代の先端にあった。於通(おつう)は名筆[2]であり、日本の書道史上唯一であるが、女性でよく一流派を形成した[3]。それが尊圓流、御家流の系統に立つ「於通(おつう)流」であり、上流の武家や公家の女性に広く賛同者を得て、江戸時代の全期を通じて女筆の基準とされた。

於通(おつう)の書は、和歌の短冊や色紙の外に、三十六歌仙画帖、歌仙手鏡などでも見ることができる。書道手本の版本も『女筆手本』『小野之づう手本』『小野於通竜田草』『女筆春乃錦』等数多く、散らし書きの踊るような文字の超絶技巧は、裏文字の曲書きでピークに達する。於通(おつう)の書は、文字と文字がつながることで文章が線として理解され、散らし書きになることでそれが面として理解されることになり、風に舞う木の葉のような裏文字で空間として理解されるようになる。於通(おつう)は、色紙や版本でその実例を表現しており、さすがに日本最初の女筆の開祖と言われるにふさわしい才能の持ち主である。於通(おつう)の手本、手鑑の版本はいずれも版を重ねている。於通(おつう)には「百人一首かるた」の歌仙手鑑も十分にありうるのだが、真筆と特定できる作品は発見されていない。

 沢田吉(きち)は元禄年間(1688~1704)に活躍した女性の書家であり、書道教材の版本である『女今川』、『女筆手本』、『女しき文章』などにその書風を見ることができる。吉にも百人一首かるたに健筆をふるった遺品がありうるがいまだ発見されていない。

澤田吉『女筆手本』  (表紙、冒頭頁、元禄十三年)
澤田吉『女筆手本』
(表紙、冒頭頁、元禄十三年)
澤田吉『女しき文章』  (表紙、冒頭頁、須原屋与兵衛外板、元禄年間)
澤田吉『女しき文章』
(表紙、冒頭頁、須原屋与兵衛外板、元禄年間)

長谷川妙躰(みょうてい)は江戸時代中期の書家であり、女筆の大家[4]として有名であり、とくに新興の町人の女性に人気があり、武家に人気のあった小野於通(おつう)と好対照であった。妙躰(みょうてい)の書風は、その著作、『わかみどり』、『さざれ石』、『蝉小川』、『難波津』、『女文通筆梅子』などで知ることができる。

長谷川妙躰『わかみとり』  (冒頭頁、京都・表紙屋彦兵衛外、 宝永四年)
長谷川妙躰『わかみとり』(冒頭頁、
京都・表紙屋彦兵衛外、 宝永四年)
長谷川妙躰『瀬見緒河』(冒頭頁、享保十八年)
長谷川妙躰『瀬見緒河』
(冒頭頁、享保十八年)
長谷川妙躰『難波津』 (冒頭頁、正徳四年)
長谷川妙躰『難波津』
(冒頭頁、正徳四年)

こうした書家と並んで、絵師にも女性の活躍があった。かるたにとって特に縁が深いのは清原雪信と居初(いそめ)つなである。清原雪信は狩野探幽の高弟の家系の出で、その出自を活かして狩野家内で絵画の修行を積み、生存当時から著名であった。ただ、若い時期に色恋の事件を起こして家出して別宅で絵師として活動した。雪信には、「女房三十六人歌合」画帖があり[5]、また「百人一首」画帖がある[6]。但し、これらの画帖は、京都の裕福な町衆の依頼に応じた女児の婚礼の調度品として制作されたものと思われる。当時、大名や公家の婚儀の真似をする町民も出てきて急激に「百人一首画帖」の需要が拡大する中で、裕福とはいえ町衆が禁裏絵所預の土佐派や幕府奥絵師の江戸狩野派の作品を望むべくもなく、代用品として、格式が少し落ちるが入手しやすい清原の作品を買い求めた事情はよく理解できるし、そういう事例の一つとして、長谷川派の絵師であった長谷川某や清原雪信の画帖が制作されたことも推測できる。清原雪信には四代将軍の御台所から侍女に下賜された三十六歌仙図も残されており、最近は、江戸時代における女性の活躍を高く評価する趣旨で、清原を天才的な絵師としてクローズアップしてその作品を一流のものと評価する動きがある。確かに清原の画才は優れたものがあるが、自由で奔放な生活が修行のブレーキになったのか、絵師に求められる考証に弱点があり、そうしたミスが見えることがある。清原をスター、ヒロインとして高く評価する論は、絵画史とは別の価値観を大和絵の評価に当てはめているように見える[7]

清原雪信『女房三十六人歌合』  (江戸時代前期)
清原雪信『女房三十六人歌合』
(江戸時代前期)
清原雪信『女房三十六人歌合』(上段右より:小野小町、斎宮女御、下段右より清少納言、式子内親王、江戸時代前期)
清原雪信『女房三十六人歌合』
(上段右より:小野小町、斎宮女御、
下段右より清少納言、式子内親王、
江戸時代前期)
清原雪信『百人一首画帖』  (時雨殿蔵、江戸時代前期)
清原雪信『百人一首画帖』
(時雨殿蔵、江戸時代前期)
居初津奈『女書翰初学抄』(冒頭頁、元禄三年)
居初津奈『女書翰初学抄』(冒頭頁、元禄三年)

一方、居初(いそめ)つなは平成二十年(2008)以降に石川透が集中的に紹介をしてよく知られるようになった女性画家[8]であり、書も良くした。居初には、奈良絵本の三十六歌仙絵があり、書では『女書翰初学抄』がある。また、女性向けの絵画付きの書物、『繪入女教訓文章』、『女実語教・女童子教』などでは書画双方で手腕をふるっている。なお、居初つなには、高級な婚礼道具の一部として調度された「百人一首かるた」があり、平成二十五年(2013)の展覧会[9]で世に出た。つなの場合も清原雪信に似て、京都の町衆の依頼に応じた作品であったのであろう。

このほかに、かるたの遊技と関係が深かったであろうと推測される女性には、後水尾院とともに幕府による政治的な抑え込みへの鬱屈した思いを宮中での王朝文化の復興と遊興の生活を楽しむことで発散させていた東福門院和子(まさこ)、ポルトガルから伝来した南蛮カルタにも大きな関心を示していた遊興好きの春日局、武家の出で、「容色風姿類なきのみならず、手かき哥読み茶香などをはじめ、凡遊芸に長じぬ」とうたわれた、京都六條三筋町の遊女で、寛永年間(1624~44)の遊郭でのかるたの流行を主導したであろう吉野大夫、愛用のかるたを残して歴史に名を刻んだ五代将軍綱吉の正室、浄光院(かるたでは浄行院として伝わる)などがあるが、いずれも確たる証拠が出てこないので推測に留まる。

ただ、いずれにせよ、江戸時代初期(1603~52)のかるたの世界は、基本的に女性の遊技文化の世界であった。当時の女性たちは、上流階級から庶民まで、有名人から無名の人々まで、後世、封建の拘束が厳しくて家内に閉じ込められた時代の女性像から想像ができないくらいに生き生きと活発に活躍しており、そうした女性たちの発する期待や願いがかるたの文化を花咲かせたことは間違いがない。

江戸時代のこうした女性書家の活躍を研究したのは小泉吉永であり、長年にわたる刊本の膨大な蒐集を基礎に、彼女らの足跡を明らかにした。小泉は、女性書家が活躍したのは江戸時代初期(1603~52)、前期(1652~1704)からであるが、刊本の出版が盛んになったのは元禄年間(1688~1704)から江戸時代中期(1704~89)であり、この時期には、女性が書いた「女筆」が重視され、小野お通、澤田吉、長谷川妙躰らの筆跡が続々と世に出されたと指摘する。この風潮は、しかしその後途絶えて、江戸時代後期(1789~1854)には、「女筆」は、男性の書家が女性の書の手本を書いたものを意味するようになった。この変化は衰退というよりも暴落、崩壊と呼べるほどの急落であり、和歌や俳諧の世界などでの女性の文化的な地位が低下したわけでもないのに、なぜこの時期に女性自身の書の評判が急落したのかはなお今後の研究を要するが、小泉が、「江戸時代女性文庫」[10]の編集、解説を通じて進めたデータの提供を含めて、この面での研究の基礎を築いたことは高く評価される。


[1] 江戸時代の女筆手本については、小泉吉永「解説Ⅰ」『江戸時代女性文庫・補遺「女筆手本類」』第一巻、大空社、平成十一年、三八五頁。中野節子『女はいつからやさしくなくなったか 江戸の女性史』平凡社新書、平凡社、平成二十六年。

[2] 前田詇子「小野お通―女筆三羽烏―」『日本美術工芸』昭和四十六年二月号四二頁。

[3] 小宮山碧「小野お通とお通流―系譜史料に見るお通流」『書芸術研究』第二号、筑波大学人間総合科学研究科書研究室、平成二十一年、二五頁。

[4] 前田詇子「長谷川妙躰―習字教育と女書―」『日本美術工芸』昭和四十六年八月号、五四頁。

[5] 楢崎宗重「清原雪信筆女房卅六歌仙図」『国華』第七百十二号、昭和二十六年、二五五頁。高垣幸絵「清原雪信筆『女房三十六歌仙歌合画帳』について」『MIHO MUSEUM 研究紀要』第十四号、同美術館、平成二十六年、八三頁。若杉準治、前引注22『女房三十六人歌合』ふたば書房。

[6] 『企画展 百人一首かるたの世界』、大津市歴史博物館、平成二十五年、一三頁。

[7] 清原雪信の生涯及び事跡につき、伏谷優子「㉑江戸時代初期の狩野派における大和絵様式の継承について―清原雪信の作品とその画風を中心に―」『鹿島美術研究(年報第17号別冊)』、鹿島美術財団、平成十二年、二六七頁。

[8] 石川透「奈良絵本・絵巻の制作者、居初つな」『奈良絵本・絵巻研究』第六号、奈良絵本・絵巻国際会議、平成二十年、三〇頁。石川透『奈良絵本・絵巻の展開』、三弥井書店、平成二十一年。石川透「居初つなと『雛形絵巻』」『奈良絵本・絵巻研究』第七号、奈良絵本・絵巻国際会議、平成二十一年、一七頁。石川透「居初つなの仕事と著述」『アジアにおける『知の伝達』の伝統と系譜』、慶應義塾大学言語文化研究所、平成二十四年、一頁。石川透「『西行物語』版本の制作者について」『西行学』第四号、西行学会、平成二十五年、四六頁。「居初つな筆雛本『徒然草』の出現」『絵入り本研究』第五号、絵入り本研究会、平成二十六年、七頁。石川透「居初つなの小型奈良絵本・絵巻」『絵が物語る日本:ニューヨークスペンサー・コレクションを訪ねて』、三弥井書店、平成二十六年、八一頁。

[9] 大津市歴史博物館、前引注6『企画展百人一首の世界』、同博物館、平成二十五年、二〇頁。

[10] 『江戸時代女性文庫』全百巻+補遺「女札手本類」十二巻、大空社、平成六年~平成十二年。

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