京都市の時雨殿には、同館が所蔵する百人一首画帖が二点ある。『画帖資料番号3百人一首手鑑』(以下、『時雨殿本3』)[1]と『画帖資料番号14百人一首画帖』(以下、『時雨殿本14』)である。同館はこれらを同館のホームページ上で公開するとともに、江戸時代初期(1603~52)のものと鑑定した。この説が成立するのであれば、百人一首かるたの歌人図像の秘密は正解に大きく近づくことができる。今は閉鎖されてしまったが、かつてホームページ上で公開されていた図像を見たときの記録を基にして検討してみたい。
まず、『時雨殿本3』である。この歌人図像は各々が縦三十六センチ、横二十六・五センチで、縦横比率が七十四パーセントの長方形であり、他の画帖よりもはるかに大型である。これは、後付けの木箱の表面に「手鑑 百人一首一箱 画長谷川宗圜 筆目録壹冉(ぜん)添」とあり、歌人画は長谷川派の絵師、長谷川等伯の弟子の長谷川宗圜の作とされ、書は目録に十六名の著名名皇族や公家の名前が列挙されている。目録は天保十五年(1844)の作である。時雨殿の関係者である吉海直人は、この歌人絵を、制作年代について何年と特定できないで漠然とした表記をしているものの、『素庵百人一首』よりも以前の、「百人一首がまだ類型化・典型化される前の混沌とした状態を残している貴重な資料」と鑑定した。『素庵百人一首』は江戸時代初期、寛永年間(1624~44)の作であるから、『時雨殿本3』の制作はそれ以前、慶長、元和年間(1596~1624)か、もっと以前の安土桃山時代ということになる。そうだとすれば、その後の江戸時代初期(1603~52)の世阿弥光悦や角倉素庵らの試みは、従来は時代を切り開く革新的な事業とされていたが、実は長谷川派が『時雨殿本3』などで確立した基準からの逸脱に過ぎなかったことになるし、歌人像付きのかるたの発生史も長谷川派を重視した歴史像に変わってくる。つまり、これは百人一首歌かるたの歴史を覆す大発見である。百人一首かるた果たして本当にそうなのだろうか。
この『時雨殿本3』であるが、天保十五年(1844)といえば画帖が制作されたと想定される江戸時代初期(1603~52)からすると二百年以上も後の時代である。この時期に書かれた、それも画帖そのものではなく後からいくらでも情報を付加できる目録を信頼して、「長谷川」印を画帖完成時に絵師が捺した「長谷川宗圜」印であると善解すれば[2]、江戸時代初期(1603~52)、遅くも長谷川宗圜が生存していた寛永年間(1624~44)の歌仙絵ということになるが、添付されている十六名の筆者の目録は画帖の制作年から二百年もの時代が離れすぎていて信用が薄いし、歌人名や和歌本体の書が江戸時代前期(1652~1704)、延宝(1673~81)以降、元禄年間(1688~1704)までの時期に刊行された版本の百人一首本の影響を強く受けていて、判断のポイントとなる歌人名は権中納言敦忠、大僧正行尊、権中納言匡房、従二位家隆であり、和歌の本文は三條院の和歌が「うき世」、源俊頼朝臣が「山おろしよ」、俊恵法師が「あけやらぬ」である。これは三條院の和歌が「この世」とされた冷泉家流の百人一首の表記を用いていた江戸時代初期(1603~52)の刊本ではありえないものであり、二條家に伝わり、細川幽斎、後水尾天皇らの正統派の表記を用いるようになった一時代後の江戸時代前期(1652~1704)の書である。これを江戸時代初期(1603~52)のものとした吉海の鑑定は、元禄年間(1688~1704)の将軍徳川綱吉を、それよりも一世紀、百年近くも前の初代将軍の徳川家康よりもさらに以前の、江戸時代初期、まだ混とんとしていた時期の将軍であるとするようなものであり、家康も初代ではなく二代将軍に格下げになってしまう。荒唐無稽のまったくの誤りである。
なお、三條院の歌人名にだけ「三條院御製」とある。百人一首で天皇の和歌に「御製」の表記を付けた例としては『宗祇抄』があるが、それは時代も格式も違う天智天皇と持統天皇の和歌に関してであって、他の天皇や上皇の和歌には「御製」はない。『時雨殿本3』が、天智天皇や持統天皇については「御製」をつけないで三條院の場合だけに「御製」とした理由が分からない。表記の混乱である。三條院の和歌の記憶に自信がなくて参考にした画帖ないし文献がたまたま天皇の和歌に「御製」と表記する「百人秀歌」類似タイプのものであって、そこから三條院の部分だけを抜き書きしたのでこういう奇妙な表記になったのであろうか。いずれにせよ雑な話である。
したがって、『時雨殿本3』を、江戸時代初期の慶長、元和年間(1596~1624)、いや、もっと以前の安土桃山時代の作と見ることは到底できない相談であることが分かる。文字の書だけでもこの否定的な結論は揺るがない。これは江戸時代前期(1652~1704)後半、元禄年間(1688~1704)以降のものである。
[1]https://www.shigureden.or.jp/outline/collection_detail.html?from=item_detail&item_id=265
[2] 吉海直人「『時雨殿本3』について―初期歌仙絵考―」『同志社女子大学学術研究年報』第六十三巻、同志社女子大学教育・研究推進センター、平成二十四年、一五〇頁。