かくして、江戸時代後期(1789~1854)はかるたの全盛期になった。本章ではそのことを細かく見てきた。そこには、これまであまり注目されてこなかったが、言葉遊び、歌舞音曲、芝居見物、旅行、性娯楽など、大人の遊興が色濃く反映していて、かるたは大人の遊技の道具であった。そしてそこにはもう一つ庶民教育、特に女子教育という要素があったことを見ておかねばならない。

江戸時代の日本は、享保の改革以降の初等教育の刷新によって、世界に例のないほどに識字率が向上した。それを最底辺で支えたのが家庭内での最初の教育であった。士農工商の身分差の中であるが、多くの家庭で、年の暮れになると「いろはかるた」を買い求め、正月には幼児が無事に年齢を重ねて四、五歳になったことを祝うとともにかるたを与えて、祖父母が相手をして遊びを通じていろはの文字を教えた。これは、六歳前後から始まる寺子屋での「いろは」四十七文字の習字教育につながった。そして、こうして身に付いたかるた遊び習慣を引き継ぐのが年長の子どもの「百人一首」のかるた遊びであった。

江戸時代の教育、とくに女子教育における「百人一首」の活用を明らかにしたのは小泉吉永の往来物の蒐集と研究[1]である。それによれば、江戸時代中期以降に女子教育用に『百人一首』の刊本が次々と発行され、それは『女今川』『女大学』とともに女子往来物の中心になり、江戸時代後期には、後二者も合わせた大部の『百人一首』が成立して活用されていた[2]。その際には、『伊勢物語』や『源氏物語』等は好色に過ぎるということで退けようとする傾向があり、「百人一首」にも恋の歌は多く含まれているのだがその点には目をつぶって読み書きの教材として活用された。ただし、こうした往来物はことごとくが女子教育用のものであり、男子の場合は寺子屋で「百人一首」を教わった形跡はなく、もっぱら家庭内での家族間での伝承であったようである[3]

『春栄百人一首姫鑑』(再刻本) (和泉屋市兵衛板、天保年間)
『春栄百人一首姫鑑』(再刻本)
(和泉屋市兵衛板、天保年間)

例えば、江戸時代後期(1789~1854)になるが、寛政年間(1789~1801)に蔦屋重三郎方から出版され、天保年間(1830~44)に和泉屋市兵衛方から再版された『春栄百人一首姫鑑』[4](表紙裏では『春栄百人一首千載緑(しゆんゑいひやくにんいつしゆちとせのみどり)』)は、冒頭に「小倉百首之来由(をぐらひやくしゆのらいゆ)」、藤原定家の和歌「忍ばれんものとはなしにをくら山のきはの松のなれてひさしき」と机に向かう定家の図、「和歌三神(柿本人麿、玉津嶋大明神、山邊の赤人)」の和歌と歌仙図を置いたのちに、百人一首の和歌本文と歌人画を一番から百番まで並べるが、頭書に「二十一代和歌集名目(にしういちだいわかしふめうもく)」「古今六哥仙」「三十六哥仙」「源氏引歌香之圖」「年中(ねんじう)五節供(ごせつく)の由来(ゆらい)」「十二月屏風和哥(じゆうにがつびやうふわか)」「近江八景和哥(あふみはつけいのわか)」「唐土瀟湘八景(もろこししやうしやうはつけい)の和歌」「婦女(ふぢよ)玉(たま)のことの葉(は)」「詠哥根本(ゑいかこんほん)の六義(りくぎ)」「女中文の封(ふう)じやう」とある。

こうして、江戸時代の女子教育の柱として百人一首が重要視されたことは、いうまでもなく、百人一首かるたの普及、活用を強く推し進めた。世界各地のカルタ史を見ても、一つのカルタが、全社会的に遊技と教育の接点として成功した事例はそれほどない。もちろん、教育的カルタという試みはどこでも数多く考案され、社会に提供されたが、概してそれらは失敗作で、遊技と教育を兼ねさせることへの違和感、抵抗感はどこの社会にもあった。そういう意味では、百人一首は例外的な幸運児であった。むべ山かるたの様に、古典的な文芸作品で賭博をするといういささか行儀の悪い事情もあったが、そういう物の併存を認める江戸時代人のおおらかさ、いい加減さがこの幸運をもたらしたのであろう。


[1] 小泉吉永「女子用往来と百人一首」、『百人一首万華鏡』、思文閣出版、平成十七年、五五頁。

[2] 綿抜豊昭「解説」『百人一首集Ⅱ』、桂書房、平成十五年、一〇一頁。

[3] 小泉吉永『百人一首万華鏡』、思文閣出版、平成十七年、六五頁。

[4] 『春栄百人一首姫鑑』架蔵のものに拠る。

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