そして、ここで最も目を引くのは、狩野派が、崇徳院に繧繝縁(うんげんべり)の上畳と茵(しとね)を配して描くことによって、それまでは崇徳院から畳、茵を除くことで、同院を「廃帝」であるので上皇として認めず、臣籍に追放していた土佐派の絵師と光悦、素庵を非難し、そしてそれを容認した後水尾朝廷の皇室史解釈を批判している点である。後水尾朝廷は自分の好き嫌いで勝手に古代の天皇を格付けして崇徳院を貶めている。それは天皇制の歴史と伝統を蔑ろにする行為である。江戸狩野派の歌仙絵にはこうした批判の含意があり、それに見合った挑戦的な構図が選ばれている。

朝廷が崇徳院を上皇と認めなくとも幕府の側に立つ歴史学は立派に認めている。だから、朝廷も崇徳院を悪怨霊扱いするのをもう止めて、幕府の見解に従って不当な見解を改めるべきである。御用絵師がこういう意図による構図の絵を描き、幕府がこれを是認して多額の報奨金を与えて称賛し、各大名家の婚礼の調度に加えさせる流行を作り出した。今度は逆に土佐派が、上流階級の人々に相手にしてもらうには幕府の力を背景にして新たな正統となった江戸狩野派に従わなければならない。つまり、歌仙絵の世界での駆け引きを通じて、土佐派は江戸狩野派に従うことを求められ、朝廷は文化、文芸の世界でも幕府に従うことを要求される政治的な含意が絵画の世界にも拡張されたのである。崇徳院を上皇として認めよ。こう言う図像の百人一首歌人絵、歌仙絵を描く者が大和絵の王道を行く正統な流派なのである。これが探幽の歌人絵を是とする幕府の要求する踏絵であった。

崇徳院の歌人絵に繧繝縁(うんげんべり)の上畳を配するに先例がないわけではない。江戸時代初期の異能の絵師、岩佐又兵衛が描いた『中古三十六歌仙』[1]画帖の崇徳院図像には御簾と繧繝縁(うんげんべり)の上畳がしっかりと描かれており、又兵衛が死去した慶安三年(1650)以前にすでに社会には崇徳院を上皇として取り扱う考え方もあったことが分かる。それだけに、『素庵百人一首』や『尊圓百人一首』における崇徳院の除籍が後水尾朝廷とその周辺の意図的な工作であり、狩野探幽がそれを覆したことが知れる。

岩佐又兵衛筆の崇徳院 (「若宮三十六歌仙繪」)
岩佐又兵衛筆の崇徳院
(「若宮三十六歌仙繪」)
岩佐又兵衛筆の式子内親王 (「若宮三十六歌仙繪」)
岩佐又兵衛筆の式子内親王
(「若宮三十六歌仙繪」)
狩野安信『百人一首画帖』① (上段:天智天皇、 中段:持統天皇、下段:崇徳院)
狩野安信『百人一首画帖』①
(上段:天智天皇、 中段:持統天皇、
下段:崇徳院)

狩野探幽が土佐派歌仙絵の批判を強めたのは万治年間(1658~61)頃である。上記の「御屏風百人一首絵」を幕府に献上して称賛を受け、幕府にとっての正統派の歌人絵が確立したのは万治二年(1659)であり、翌万治三年(1660)には早くも『百人一首大全』が刊行され、そこでは、崇徳院に上畳が配された(赤染衛門にも繧繝縁(うんげんべり)の上畳が加えられているが)。江戸狩野派ではほかに探幽の弟、狩野安信の手になる『百人一首画帖』[2]がある。揮毫した五十人の公家の生没年から、寛文年間前期(1661~67)の制作と想定される画帖であるが、安信も、持統天皇や式子内親王を御簾で隠したり、藤原敏行朝臣や大江千里を武官姿に描く『時代不同歌合画帖』の歌人像に戻したり、左京大夫道雅を武官姿から文官姿に代えたり、猿丸大夫の図像を、右手をかざす『素庵百人一首』系の構図から『業兼(なりかね)本』系の座像に戻したりして、土佐派の先例にない独自色を出すことに務めている。ここでも崇徳院には繧繝縁(うんげんべり)の上畳である。さらにここでは、鷹司房輔、近衛基凞を筆頭に、寛文年間の公家五十人が和歌本文の寄合書を寄せている。このことを通じて、京都の公家は幕府の踏絵を踏み、崇徳院を天皇として認める幕府の歌仙絵画帖に揮毫することで幕府の意向への恭順を表明しているのであり、後水尾院晩年の朝廷はもはや幕府に逆らわないということなのである。


[1] 『岩佐又兵衛筆 若宮三十六歌仙絵』、若宮三十六歌仙絵保存会、平成元年。

[2] 『徳川奥絵師の歌仙図と殿上人五十人による歌書―狩野安信筆本百人一首―』、大和新潟店、昭和五十九年。

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