こうして、口承文芸、もじりの精神を組み込むことによって、百人一首カルチャは拡大し、かるたの世界では源氏物語のかるたよりもはるかに広く遊ばれるようになった。文字を知らなくても遊べる点や、賭博の臭いの強い遊技法の開発など、文芸としては外道な部分でも創意工夫の差が大きかったのであろう。

だが、文芸としては源氏物語のほうがはるかに勝っていた。この作品に接すれば、かつて日本に存在したきらびやかな宮廷文化が幻のように浮かび上がる。物語のストーリーの魅力に和歌の魅力が加わって、梗概書(こうがいしょ)を通じて宮廷文化のイメージが広く伝わった。百人一首には百人の宮廷関係の歌人がいて、その一人一人をたどれば、政治や芸道、恋や家族など様々なロマンが見えてくるが、そうした予備知識を持たない一般の人にはカード上の歌人像以外にはそれをたどる手立てがない。それに比べれば、ストーリーにそった登場人物の活躍やその情景を示す源氏物語の挿絵のほうがはるかに具象的であり、梗概書(こうがいしょ)の流行が人々の理解を助けた。

「源氏歌かるた」 (錦朝楼・歌川芳虎画、 甘泉堂板、幕末期)
「源氏歌かるた」
(錦朝楼・歌川芳虎画、
甘泉堂板、幕末期)

梗概書(こうがいしょ)としては北村季吟の『湖月抄』が著名であり、江戸時代後期には、源氏物語かるたは別名「湖月抄かるた」と呼ばれて流行するほどであった。さらに簡略に、各巻の題名のみが絵札と字札で表現されているかるたも登場し、また、この時期に流行した源氏香の記号を描いた超簡略版の「源氏香かるた」も誕生した。かるた以外の遊技でも、「源氏香」のほかに、例えば「投扇競」では投じられた扇の形を源氏物語の巻名に見立てて遊ばれている。料理や菓子の名前に巻名が使われ、遊里の女性の通称は「源氏名」と呼ばれるように源氏物語に由来するものであったし、各地の風景までが源氏物語の世界のそれに擬せられた。このように、「源氏物語カルチャ」の世界でも、通俗化、市場拡張への努力は進められていて、この物語を読破できなくても楽しめる庶民向けの工夫はある程度は成功したのだが、かるた遊びの世界では、百人一首かるた流行のパワーには及ばなかったのである。

そして、幕末期(1854~67)の政治的な混乱があり、明治維新後は、江戸が中心であった武家社会が崩壊し、約二十年、江戸文化の残照は消え、おどろおどろしい近代の文化に転換した。百人一首かるたは東京の男子大学生の間で流行したかるた会や倶楽部対抗戦などによってかろうじて生き残ることができたが、源氏物語かるたは需要が激減して衰退、滅亡していった。明治時代後期(1902~12)に、東京、京橋区南伝馬町三丁目のかるた屋、須原屋松成堂が近代の用紙、近代の印刷技術を使ってこのかるたを売り出したが、世に受け入れられるはずもなく、ひっそりと消えていった。これが社会的に存在した最後の源氏物語かるたであり、これ以降は、個人や小規模な同好者の集まりでの復刻の試みの域を出ていない。松成堂製のこのかるたは、平成年間(1989~2019)に「大牟田市立三池カルタ・歴史資料館」によって発見され、今はその収蔵庫に静かに眠っている。

百人一首カルチャは、明治三十年代(1897~1906)の「競技カルタ」の成立で劇的に変化した。それは極限までの早取りのスポーツであり、江戸時代の優雅なカルチャは姿を消した。その時から百年以上経過した今日、かるた遊技の世界では百人一首が生き残っているが、香道や投扇競などの遊戯文化では源氏物語が生き残っている。そして、映画、テレビドラマ、漫画になると、圧倒的に源氏物語が優勢である。百人一首についても「ちはやぶる」のように、漫画や映画で取り上げられるものがあるとはいえ、そこには全体を通じた文化のイメージが混乱していて、人々の心に訴えかけるものが足りない。それに代わって、百人一首が全体として何を言いたかったのか、選者の藤原定家に関わる謎が様々に指摘され、又数多くの謎解きが誕生した。推理の世界では百人一首のほうが優勢である。

現代社会にあっては、甘美な源氏物語の世界に浸るか、鋭利な百人一首の推理にはまるか、人々の関心は完全に分化しているが、両者はなお日本のカルチャの柱となって存続している。

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