さて、江戸時代中期(1704~89)の江戸で、「むべ山かるた」が賭博系のかるた遊技として大流行した。かるたの文化現象としてはとても興味深いものがあるので、ここで紹介しておこう。
まず、その遊技法であるが、寛政年間(1789~1802)にできた江戸町奉行所の与力の報告書『博奕仕方風聞書』に詳細に述べられていて、これが基本的な文献史料となっている。重要な史料なので引用しておきたい。
一、むべ山
是は百人首之哥下句認候かるた百枚を、人数四人に候得ば壱人江弐拾五枚ツゝ蒔渡置、右かるたを銘々居付候前江並べ、上之壱枚は隠と唱、思ひ入のかるた壱枚裏之方を出伏置、弐段目四枚、三段目を六枚、四段目を七枚、五段目八枚と並置、上之句のかるたを壱枚ツゝ読、下之句早く伏せ仕上候方勝に御座候。
一、隠し札出伏候得ば、壱人より銭弐百文取之定外之ものともより取、弐段目札出候得ば銭何程、三段目銭何程と順に高下を付、銭取遣仕候事。
一、月雪花のかるたは役札に定め、右札伏候得ば、銭何文と定め取候事。
一、むべ山かぜを嵐といふらんと申下之句取候ものは、かるたの内高き役札と定置、外之もの方にて月雪花の句出候ても一向に銭は遣不申候。
なお、佐藤要人は、この記述を基に、『博奕仕方風聞書』当時の「むべ山」遊技での参加者の札組みを右のように考えた。多分、こうだったのだろうと私も思う。
こうしてみると、以前はカードのやり取りであった「役札」が詠まれるたびの現金決済に代わっていて、いかにも賭博系の遊技らしいが、遊技の組み立ての基本は以前の「むべ山」と同じである。
この賭博系の遊技としての「むべ山」は、通常の百人一首かるたで遊ばれていたが、何時の頃か、それ専用のカードが開発されて使用されるようになった。その内、江戸時代中期(1704~89)の後半、天明年間(1781~89)以降ないし明治年間(1868~1912)に制作されたものが今日まで多数残されている。この「むべ山」に注目して研究を進めたのは「日本かるた館」同人である。端緒は、同人の一人、山口格太郎の手元に山形県内の人から手描きのかるたを貼り付けた屏風が寄贈されたことで、それまで好史料がなくて停滞していた研究が急速に進んだ。この「日本かるた館」での研究の成果は、佐藤要人「むべ山かるた」[1]、岩田秀行「むべ山(やま)かるた」[2]に結実しており、この二論文が今日でも「むべ山」研究の基本文献とされている。ただ、このかるたの発祥は上方、たぶん大坂と推測されるものの、それを証明する文献史料もかるたそのものも発見できず、残存するカードは、製法からは大坂出来と思われるが図柄的には江戸の風俗を写した「江戸風」のかるたであり、上方発祥説は仮説に留まって研究が停滞した。
[1] 佐藤要人「むべ山かるた」『別冊太陽愛蔵版 百人一首』、平凡社、昭和四十九年、二七五頁。
[2] 岩田秀行「むべ山(やま)かるた」『解釈と鑑賞五一九号 川柳/江戸の遊び』、至文堂、昭和五十年、二〇七頁。