「三芝居當くらべ」
「三芝居當くらべ」

ここで、時計を少し戻して、幕末期(1854~67)、明治前期(1868~87)の「お座敷遊戯かるた」に触れておこう。ここで「お座敷遊戯」と呼ぶのは、料亭などで芸者などの接客業の女性を侍らせて行われる酒席で余興として行われるものであり、「庄屋拳」「鳥刺し」などがある。江戸の文化の香りが高いものに「三芝居當くらべ」などもある。

「庄屋けん」(「狐けん」とも)は、元来は大人数のお座敷で二名が対座して、一同の囃声や芸者の弾く三味線の音などに盛り上げられて、ヨヨイノヨイなどの掛け声とともに、全身で「狐」「猟師」「庄屋」のポーズをとり、勝敗を決める「三すくみ拳」の一種、「狐けん」(明治前期には「庄屋拳」も)であり、「狐」が「庄屋」に勝ち、「庄屋」が「猟師」に勝ち、「猟師」が「狐」に勝つ。勝敗にはご祝儀や罰杯が伴う。それが、幕末期には三者のポーズを描いたかるたの遊戯に転じている。幕末期(1854~67)の二度目の来日で日本の物品を持ち帰ったシーボルトのコレクションに、一紋標三枚、合計九枚[1]の「狐けん」のセットがある。安政六年(1859)、若林堂板、歌川國郷画の「新製狐けん おもしろひやうし」は、「きつね」「かりうど」「庄や」の三紋標で、各紋標に「本人」「こども」「むすめ」「としま」「かぶき」の札がある。また、明治十年代(1877~86)に東京日本橋の榛原紙店が絵師の河鍋暁斎に描かせた、札に文字表記のない「狐」「猟人」「庄屋」、各五枚のものもある。いずれも大人のお座敷での遊興用に、図柄も丁寧で、造りもしっかりとしている。

シーボルト伝来「狐けん」
シーボルト伝来「狐けん」
「新製狐けんおもしろひやうし」
「新製狐けんおもしろひやうし」
河鍋暁斎「庄屋けん」
河鍋暁斎「庄屋けん」
「新発明狐けん」
「新発明狐けん」

それが明治前期(1868~86)までに、子ども用の玩具にまで広まった。明治前期(1868~86)の「新発明狐けん」は、「きつね」「てつぽう」「なぬし」が各三枚ある。そして、明治二十年代になると、名古屋市の紙玩具商の知恵であったが、新開発の洋紙の板紙を玩具に仕立てた、子ども専用の新商品が始まり、縦横五センチ程度の正方形の「庄屋券」や、縦横二・五センチの小型の正方形の「ドンチッチ」などが普及した。

角型庄屋券めんこ
角型庄屋券めんこ
角型ドンチッチめんこ
角型ドンチッチめんこ
小角型庄屋券めんこ
小角型庄屋券めんこ
庄屋券駒札
庄屋券駒札

この小型の「ドンチッチ」の前身は、お座敷遊戯の駒札であろう。私は、ある時に、明治十年代(1877~86)以前の「庄屋拳」遊技の駒札約三十枚を発見した。和紙を重ねて制作したものであるが、「狐」「猟人」「庄屋」が各々十枚以上あり、たまたま同時代の他の遊戯具に混じって残されていたもので、散逸しやすいものであるだけに僥倖であった。図柄は一つ一つが異なっていて同じものはなく、並べてみるとパラパラ漫画を見ているように楽しく、その時代の遊戯のありさまに思いが飛ぶ。これが、図柄はもちろんのこととして、札の大きさも、紙の硬さも「ドンチッチ」に似ており、私は、これが「ドンチッチ」の前身だと思った。こう考えると、明治二十年代(1887~96)後半に洋紙の「ドンチッチ」が登場したときに、それに「小庄屋拳」などという普通の命名でなく、「ドンチッチ」という不思議な名前が付いたのは、それ以前にこの駒札を使う遊戯があり、すでにそれが「ドンチッチ」遊戯と呼ばれていたので、その名称を引き継いだのではないかという想像も湧いてくる。

その後、明治二十七、八年(1894~95)ころに大阪で「庄屋券」を「紙めんこ」と呼んで売り出し、この呼称が広く普及して、「庄屋券」という呼称は廃れて「紙めんこ」、「ドンチッチめんこ」として長く愛用されることとなった。なお、この頃から、「狐」「猟人」「庄屋」に代えて「蛇」「蛙」「なめくじ」の「三すくみ拳」や「グー」「チョキ」「パー」の「ジャン券」を図柄に取り入れるものも現れた。この「紙めんこ」の歴史については以前に書いたことがあり、いずれその補充版をこのサイトでも載せようと思う。

だからここでは、次のように要約しておこう。

(一)庄屋拳(狐拳)は江戸後期(1789~1854)までにお座敷、酒席での大人の身体遊戯として成立した。遊技用の小さな土俵という器具も開発され、色街では盛んに遊ばれていたが、他方で、幕末期(1854~67)に、遊技中の「狐」「猟人」「庄屋」のポーズを示す図柄のかるたを出し合って遊ぶ、かるた遊戯にもなった。この時期には、「庄屋けん」よりも「狐けん」という呼称のほうが優勢であったように見える。

(ニ)幕末期(1854~67)は史料が見つからないので判断を控えるが、遅くも明治前期(1868~86)までに、「庄屋券」は子ども用のかるた遊戯具としても成立した。粗略で安価な、二、三センチ程度の長方形の「庄屋券」が数枚一組で売られるようになった。そして、明治二十年代後半(1892~96)に、洋紙の板紙を使った正方形で木版の「庄屋券」が出回り始めた。五、六センチ大のものと、小型で二、三センチのものが出現した。

(三)以上で分かるように、幕末期(1854~67)から明治二十年代(1887~96)まで、「庄屋券」は大人のお座敷遊戯のツールから発展して、子どもの遊戯具にも拡張して成長したのであって、子どもが路地裏で遊ぶ「泥めんこ」や「鉛めんこ」とは無関係であった。ところが、明治二十七、八年(1894~95)頃に、大阪の玩具販売業者が、洋紙の板紙でできた「庄屋券」を「紙めんこ」と命名して盛大に売り出して子供の間に広まった。史実はこれだけであるのに、明治中後期(1887~1912)の玩具史研究者は、根拠なく「庄屋券」改め「紙めんこ」は「鉛めんこ」の代替品、後継品であると説明した。鉛毒防止のための「鉛めんこ」禁止がこれに巧みにかぶせられて後継品説を強化した。

この架空の話は、そのまま通説化して、昭和後期(1945~89)まで通用していた。その呪縛力はすさまじく、最近の研究でも、研究の成果として「紙めんこ」の発達史と「泥めんこ」「鉛めんこ」の歴史は少しも交錯しないと指摘しているのになお、「紙めんこ史」を語る際には「泥めんこ」「鉛めんこ」に言及するのが「補助線」だとされる[2]。そうする趣旨はよく分からない。

(四)明治二十年代(1887~96)、三十年代(1897~1906)には、「紙めんこ」は「庄屋けん」とも呼ばれた。「壱物両名」である。なお、この時期に「庄屋けん」は「庄屋拳」と書かれることもあり、「庄屋券」と書かれることもある。

(五)明治三十年代(1897~1906)まで、「紙めんこ」は正方形であった。そして製作者は、正方形の中に円形を描き、その中に図柄を入れ、周囲は草花模様などで飾った。子どもたちは、この正方形の四隅を切り落として八角形に改良して遊んだ。そこに業者が、丸いふちに沿って打ち抜きで円形の「紙めんこ」を開発して売り出したので、それが主流になり、四角い「紙めんこ」や「ドンチッチ」改め「チビメン」も円形になった

打ち抜きの器具が円形よりも一回り大きいと、周囲の草花模様などが外縁として残る。正方形の「庄屋券」が円形の「紙めんこ」に変化した明治三十年(1897)頃のものには、外縁に円形の額縁のような模様がある。この外縁模様は明治三十年代1897~1906)に消えて、図柄が表面の全体に展開されて、いっそう迫力のある図柄になった。

円型ドンチッチめんこ
円型ドンチッチめんこ
初期「庄屋券」紙めんこ
初期「庄屋券」紙めんこ
初期外縁付紙めんこ
初期外縁付紙めんこ
三すくみ図柄紙めんこ
三すくみ図柄紙めんこ

(六)明治三十年代(1897~1906)の円形の「紙めんこ」に、一枚の札の図柄に、「狐」「猟人」「庄屋」が一緒に描かれるものが出現した。これは「紙めんこ」が「三すくみ」系の遊戯具であることを説明するが、以前の「庄屋券」の時期のように札を出し合って強弱を競う遊技法は成立しなくなる。子どものころのジャンケンで、中指、薬指、小指で「グー」の形を作り、人差し指と親指で「チョキ」の形を作り、手のひらで「パー」の形を作り、いつでも自分の勝ちだとはしゃいだことを思い出す。この三者総出演のアイディアは人気を得て、他にもさまざまな「三すくみ」図柄の「紙めんこ」が製作された。

明治時代後期(1903~12)の「紙めんこ」では、表面の図柄の空地に「狐」「猟人」「庄屋」の文字が入るか、図柄の中に窓絵を作ってこの三者の図像が入るか、あるいはまた裏面に図像か文字が入るか、いずれにせよ「庄屋券」であることを示すものが多かったが、中には、「蛇」「蛙」「なめくじ」の三すくみの図像に変えるものもあり、さらに、「グー」「チョキ」「パー」の「じゃんけん」に変えるものも現れた。

(七)明治三十年代後半(1903~06)に煙草が国営化されると、民営の時代には煙草の箱に封入されていて、子どもに下げ渡されて遊戯具になっていた、縦五・七センチ、横三・五センチ程度の大きさの「煙草カード」が消えた。この時期に、それに代わるように、図柄も構成も類似した、ほぼ同じ大きさの「角型面子」、「角メン」が登場した。

(八)このように、「庄屋券」は「めんこ」になって永らえたが、古風な室内遊戯用の「庄屋券」カードがすべてほろんだということではない。私の手元には、英語教育のツールともなる「英語庄屋券」がある。洋紙は柔軟で、叩きつける「紙めんこ」の遊技には適していない。ただし、英語は紙めんこの題材としても人気で、手元にあるものは、明治三十年代前半であろうか、上部に「英語庄屋拳」、下部に「鐡砲」とあり、中に「少佐」と「SHITOSA」がある。「SHITOSA」は「SHIYOSA」であろう。

英語庄屋券
英語庄屋券
英語庄屋拳紙めんこ
英語庄屋拳紙めんこ

以上が「庄屋券」に関する史実である。今なお「泥めんこ」「鉛めんこ」からの継承を主張し、あるいはそれを「補助線」とするのであれば、何はともあれ物品史料ないし文献史料をもって史実を示してほしい。私が調べた限りでは、大阪の業者がたまたま「めんこ」という言葉をこの新製品にも転用したこと以上には史実が現れない。遊戯具の形や図柄、あるいは遊戯法などでも、類似しているといえないこともない例は散見されるが、それだけのことである。例えば、数百種ある「泥めんこ」の図柄の中に「狐」「庄屋」などがあるとき、それだけで「紙めんこ」は「泥めんこ」の後継と言えるのだろうか。「鉛めんこ」では、立ち姿で目の高さにしためんこを手放して、自由落下で下にあるめんこに衝突させて裏返せれば獲得できるという遊技法が記録されているが、「紙めんこ」では軽すぎて裏返すことができない。そこで、叩きつけて相手のめんこを裏返す遊技法が誕生したときに、それも後継の遊戯具への遊戯法の伝承なのでろうか。そう理解するか、それとも紙製という新製品での新規の遊戯法と理解するのかは、見解の相違というものであろう。


[1] ただし、平成八年にドイツ・日本研究所などが主催した「シーボルト父子のみた日本」展の準備期間中に「狐」札一枚(8-C)を紛失したのか、この展覧会のカタログでは八枚しか写されていない。ここでの画像では、この札は私が以前の写真から補った。

[2] 杉谷修一「庄屋拳の記号化過程―紙面子との関連を中心に―」、『西南女学院大学紀要』第十四号、平成二十二年、一〇頁。

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