ここで最も鮮明に問題の所在を明らかにするものとして、この歌集の先頭から二人目の歌人名の表記に関する問題点がある。今日、通常、これは「持統天皇」と表記される。この表記は、ふり返れば、江戸時代前期の後半、元禄年間に近い時期まで遡るが、宮中を別とすれば社会的にはこの時期が初見である。しかし、これと異なり、④室町時代中期に忽然として『百人一首』という歌集が登場した際には、この歌人は「持綩天皇」と表記されていた。「綩」と言う文字は、糸へんにつくりは「宛」であり、糸へんに「充」と書く「統」の文字とは明らかに別字である。 ①鎌倉時代、定家の時代は「持綩天皇」、②鎌倉時代、定家の息子で後継者の為家の時期は「持統天皇」、③南北朝、室町時代前期は「持統天皇」、④室町時代中期、『宗祇抄』以降は「持綩天皇」そして安土桃山時代、江戸時代に入ると、⑤二條流の宮廷歌人の間では「持統天皇」、⑥「本阿弥光悦本』、『角倉素庵本』、『尊圓本』、『小堀遠州本』『百人一首大成』『菱川師宣本』など、平和が回復した京都などの市中に出回っていた書物は概ね「持綩天皇」という表記であったが、⑦『像讃抄』『北村季吟拾穂抄』など、元禄年間に近づくと京都、名古屋、江戸などの市中に出回った書物にも「持統天皇」と言う表記が現れた。単純化していえば、室町時代と江戸時代初期、前期の冷泉流の『百人一首』は「持綩天皇」であり、江戸時代の二條流は「持統天皇」を採用しており、それに伴い宮中では「持統天皇」が優勢であったということである。

持綩天王(『百人一首抄』
應永十三年本笠間書院)

なお、室町時代中期以降に「持綩天皇」がどう読まれたのかは分からない。文字を素直に読めば「じえんてんのう」であるが、こう書いて「じとうてんのう」と読まれていたのかもしれない。江戸時代初期、前期には、「持綩天皇」と書いて「じとうてんのう」とフリガナをした例がいくつかあるので、比較的早くからそう読んだと思われるが、私には、室町時代、安土桃山時代の文献での読みを判読する史料を確認することはできなかった。ただし、宗祇の『百人一首抄』の模写本のうち、『應永十三(1406)年本』には、「持綩天王」とあり、横に、「チエン」とフリガナが付いている。この部分がいつの時代の加筆か分からないので何とも言えないが、もし、應永十三年かそれに近い時期の加筆であるとすると、室町時代、足利義満が将軍であった時期に「綩」の字はこう読まれていたという有力な証拠になる。

『百人一首抄』應永十三年本笠間書院)
『百人一首抄』
應永十三年本笠間書院)

また、江戸時代初期の『平仮名古活字本』をみると、「ちとうてんのふ御せい」とある。この書は、上記の『應永十三年本』に近いとされているが、そうだとすると、「綩」の字を「とう」と読んだことになる。この時期は、二條流の内部では、細川幽斎などの力が強かったので、「じとう」という読みに従ったのであろうか。

この差異は、従来の国文学者の研究では無視されていた。たとえば、昭和四十九(1974)年刊の『別冊太陽愛蔵版・百人一首』(平凡社)は、本阿弥光悦の刊本『百人一首』を写真版で全文掲載した。これは、『百人一首』史ないし「百人一首歌かるた」史の研究者にとっては最重要な史料の全面的な開示であり、研究者にとって極めて重要な貢献であった。そして、この書籍を編集、「構成」した森暢と吉田幸一と平凡社サイドの編集者は、この刊本が、二條流の表記と異なる冷泉流の表記のものであることをよく理解していて、和歌の掲載順や歌人名、和歌本文での独自の表記に十分に気を配って正確に写し取り、二條流の表記とは異なる形で編集、解説してそのことを説明しているのだが、二番目の歌人の名前だけは、「持綩天皇」と書かれているのにこれを「持統天皇」と読み解いてそのように表記してしまっている。誤読であることは言い訳のしようもなく明らかである。同じように、昭和四十八(1973)年に出版された濵口博章・山口格太郎『日本のかるた』でも、「持綩天皇」は「持統天皇」と読まれている。一言で言えば、「持綩天皇」は「持統天皇」の誤記扱いであったのである。

『百人秀歌』と『百人一首』の「天智天皇」と「持統(綩)天皇」
(〇=持綩天皇、●=持統天皇)

だが、私はそうは考えなかった。この問題に関心が生じた端緒は、「百人一首歌かるた」にある。私が蒐集した江戸時代初期、前期のかるたを集めて見ていると、その多くが「持綩天皇」であった。一つ二つであれば誤記で済まされるが、この時期の多くの「かるた」がこういう表記であると、そこには何らかの原因があるはずだと思われてくる。このこと自体が驚くべき発見であったが、次に、さらに驚愕するべき事実に出会った。『百人一首』の元になったと考えられている、藤原定家の作と考えられる鎌倉時代中期の『百人秀歌』を調べていると、①宮内庁書陵部蔵のもの⁵でも、②時雨亭文庫蔵のもの⁶でも「持綩天皇」と表記されている。今の「持統天皇」は、鎌倉時代には「持綩天皇」と表記されていたことになるのである。それなのに①を発見して紹介した有吉保も、②を紹介した吉海直人も、この問題点にはまったく気付いてもいない。私は、こんな話は聞いたこともないので本当に驚愕したし、それまで国文学者たちと同じようにこれに気付かなかった自分の非才が情けなく思えたが、他方で、江戸時代初期、前期の「かるた」札が、むしろ正調の表記を継承していたのだと気づくことができたので、とても幸福でもあった。

他方で、『百人一首』の研究史では、歌集としての実在が明確になっているものは、室町時代中期の『宗祇抄』以降の歌集であるが、江戸時代、元禄年間以降になると、これよりも古い時期である鎌倉時代、南北朝時代、室町時代前期に制作されたとされる『百人一首』の写しが何点か発見されており、その中では、定家の後継者である息子の藤原為家筆とされる『百人一首』が最古のものとされており、これが有るので、『百人一首』は鎌倉時代に藤原定家によって編纂され、為家によって整理されたうえで公表されたとする理解が支配的になっていた。しかし、登場したのは江戸時代に制作された模写本であり、古い時期の歌集の原本は見出されていなかった。とくに、鎌倉時代の藤原為家筆の原本についての所在は不明である。

ここで驚くべき事実があった。②『為家本』及び③それ以降の南北朝、室町時代前期の『百人一首』の後世になって発見された写本は、いずれも「持統天皇」の表記であったのである。これは実に奇妙な事態である。時系列に沿って並べ直してみると、①藤原定家作の『百人秀歌』は「持綩天皇」、②鎌倉時代、定家の息子で後継者、藤原為家筆の『百人一首』は「持統天皇」、③南北朝、室町時代前期の『百人一首』の写本は「持統天皇」、④室町時代中期以降の伝来がしっかりしている歌集は「持綩天皇」、⑤室町時代後期、江戸時代初期の二條流のものは「持統天皇」、⑥江戸時代初期、前期に市中に出回っていたものは「持綩天皇」、⑦元禄時代以降は「持統天皇」ということになる。

この、千鳥足のようにふらふらと「持綩天皇」と「持統天皇」の間を移動する表記の揺れは、歴史学的にはどの様に理解されるのか。この奇妙な事態の問題性に着目することのない国文学者からは発信がない。そこで、私は、私なりに事態を整理してみた。その際に、まず各々の史料についている由緒書を重視してそれを基準にして年代順に並べると、①鎌倉時代、定家の時代は「持綩天皇」、②鎌倉時代、定家の息子で後継者の為家の時期は「持統天皇」、③南北朝、室町時代前期は「持統天皇」、④室町時代中期、『宗祇抄』以降は「持綩天皇」、⑤安土桃山時代、江戸時代初期の二條流は「持統天皇」、⑥江戸時代初期、前期の市中の冷泉流は「持綩天皇」、⑦江戸時代前期後半は「持統天皇」ということになり、いかにもジグザグで混乱している。ところが、この混乱を各史料についている由緒書きの類の表示を無視して歌人名と和歌本文の記載で整理し直してみると、①鎌倉時代、定家の時代は「持綩天皇」、②室町時代中期、『宗祇抄』以降は「持綩天皇」、③江戸時代初期、前期の市中の冷泉流は「持綩天皇」であり、他方で、④安土桃山時代、江戸時代初期の宮中の二條流は「持統天皇」、⑤江戸時代前期後半は「持統天皇」、⑥鎌倉時代、定家の息子で後継者の為家筆の『百人一首』は元禄時代以降の写本のようで実は元禄年間以降の表記の方法、「持統天皇」であるのでこの時期の創作品ではないかと考えられるし、⑦同様に、南北朝、室町時代前期のものとされている『百人一首』も元禄時代以降の「持統天皇」なのである。このように並べ替えてみると、見事にすっきりと「持綩天皇」から「持統天皇」への移行の過程が浮き彫りになって現れてくる。安土桃山時代、江戸時代初期のこの移行、無言のうちに行われた交代劇を主導したのは三條西実隆や細川幽斎たち、宮廷歌人であろうか。いずれにせよ、ここには「持綩天皇」と「持統天皇」の間をジグザグする混乱はない。

私のような、江戸時代の文字の讀解が苦手な者でも容易に識別できる糸へんに「宛」という文字なのに、国文学史学者の眼には糸へんに「充」、つまり「統」という文字に見えてしまう。森、吉田、濵口、有吉、吉海のような、好んで社会的な発信をしてきた大学教授たちが、枕を並べて討死にしているのである。偏見というか、先入観というか、無意識に犯す誤読は修正が難しく、研究者にとっては恐ろしい落とし穴である。私自身もこれまで多数の誤読、誤植を行ってきたので、森、吉田、濱口、有吉、吉海たちを責めるつもりは全くない。まして、江戸時代初期、前期の筆写者が間違えたとしても今頃になってそれを責めることはできない。

このように「持統天皇」の表記のずれに注目して見てみると、鎌倉時代ないし室町時代前期のものとされる手書きの『百人一首』の書物は、実はいずれも室町時代後期から江戸時代初期、前期にかけての、二條流の書家による新品に見えてくる。つまり、歴史学的に確実に『百人一首』と言う歌集が存在したと言えるのは室町時代中期以降のことであり、その際には「持綩天皇」と表記する巻子が登場したのだが、その後、江戸時代に入ってから、二條流の後継者の間からこれを「持統天皇」と表記するものが現れ、その後になって、室町時代中期に現れた「持綩天皇」と表記するものよりも古い時期の「百人一首」と主張する歌集の模写本が何種類か現れたが、そこでの表記はいずれも江戸時代色の濃い「持統天皇」である。こうした新出の歌集の元となったはずの鎌倉時代ないし室町時代前期の『百人一首』の書物がこのような表記であったとは考え難い。江戸時代の表記が用いられている鎌倉時代、室町時代前期の和歌集と言う奇妙なものであっては、それがかつて本当に鎌倉時代や室町時代に実際に存在したのかどうかさえ確認できない。江戸時代の摸本には、実は、二條流の人たちが、祖先の藤原定家より伝わったものという偽史を製作して主張した、江戸時代初期、前期の創作品、歴史史料の贋造品が多いと理解するほうが健全、健康なのである。

かくして、初期の「古型百人一首歌かるた」における「持綩天皇」という表記は、『百人一首』という日本和歌史の最重要な歌集の成立について、従前の国文学史学者が構築してきた旧来の通説に対する新たな疑問を投げかけることになるのである。

ここで、この変化の社会的背景を扱うのはいかにも軽いが、宮中の噂話に関心のあるであろう人々のために私の「空想」を記しておこう。二條家は、南北朝対立の時代になると、息女を後醍醐天皇の後宮に差し出すなど南朝寄りであり、それゆえに、南朝が敗北すると没落し、ついに本家筋が途絶えて傍系による復元に頼る始末であった。一方、冷泉家は北朝方につき、勝者の足利幕府と良好な関係にあった。ほんの一例だが、日野富子の息子、足利幕府第九代将軍、足利義尚が延徳元(1489)年に書いた『小倉山庄色紙和歌』は冷泉流の「持綩天皇」である。これに対して、前年の長享二(1488)年に書かれた二條流の宮廷歌人、公家の三条西實隆の『百人一首』は「持統天皇」であり、この表記が、祖先の藤原定家から秘儀を受け継いだ本家筋の二條流のプライドと主張しているように見える。そして、約一世紀後の天正年間(一五七三~九二)になるが、天正九(一五八一)年にお家流の書道の始祖、建部傳内の書いた『小倉山庄色紙和哥』は「持綩天皇」である一方で、「持統天皇」を良しとする三條西實隆のプライドは細川幽斎や中院道勝、道村父子らによって、後陽成天皇、後水尾天皇の朝廷に持ち込まれた。そのころには既に足利幕府は衰退、崩壊しており、逆に後水尾天皇の皇室は力を着けていたので、宮中では、本阿弥光悦を敬愛する烏丸光廣や角倉素庵は「持綩天皇」である一方で、両天皇や多数の皇族、公家が「持統天皇」を正調とし、「持綩天皇」を異端とする風潮が高まり、それが徐々に、京都、大坂、名古屋、江戸などの社会に浸みだし、元禄年間以降には全社会的に「持統天皇」に収まった。

「持綩天皇」の札の中のわずか一文字の表記の違いが、このように通説の真偽についての深刻な疑問を生じさせる契機になるのであるから歴史研究は怖い。そして、この違いに気付くことができなかった従来の国文学史の大学教授たちの古臭い通説の崩壊は免れることはできない。彼らの講じている「百人一首」史は、歴史研究としての信頼性の低下からの回復ができない。だから、通説を唱え続けてきた国文学史の大学人がこの問題点については見て見ぬふりの黙殺を決め込んだのも、地位と権威を守るための所業であろうと理解できなくもないが、日ごろの不勉強ぶりを暴露されて、その権威、著名な大学教授としての名声に傷が付くことも確かである。


⁵ 有吉保、神作光一監修『百人一首入門』淡交社、平成十六年、七〇頁。

⁶ 吉海直人監修『百人一首への招待』平凡社、平成二十五年、一四〇頁。

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