こうして、私は、『百人一首』の成立について、素人らしい何点かの疑問を抱くようになった。そしてよく見れば、すべての疑問は同じ方角を指している。私には、従来の百人一首発祥論が語ってきたところとはまるで違う方角を向いている一群の「歌群」が見える。以下でそれを説明しよう。

村井は『明月記』を御子左家の「家記」(家の日記)だとする⁹。「家記」とは、公家の家系にある家族に歴代伝えられるべき故実の書である。村井は『明月記』にある「此の人は有識(ゆうしき)の余流と雖(いえど)も家記を持たず、常に音信(手紙をよこす)、毎度委しく示す」と言う記述を引用しつつ、定家の意識を説明している。公家は、伝統的な宮廷儀礼に従って生きる運命にあり、そこで、子孫にその次第を教え、その家の者に求められる立ち居振る舞いを指南する記録が必要となる。その家の格に合わせた、公家にとって必要不可欠の書が、その家の「家記」だということになる。私は、村井のこの認識に賛同している。公家は、有職故実の縛りのきつい宮廷で生活するのであり、昇進するにつれて立ち居振る舞いにも異なった作法の遂行が求められる。それを子孫が滞りなく、礼儀正しく行うには、それの教本が必要であり、そういうものが家中にあることが名家の公家の格式であり、宮廷での身を守り、立身するうえでの大きな助けになる。だから名家にはその家に独自の、秘密の「家記」があるべきなのである。

そして、歌道で仕える公家の家には、「家記」とならんで、歌学で尊敬される「歌道家」の家柄、宗家、家元にふさわしい、歌学の奥義を記した和歌の書があるはずである。以下ではそれを、拙い造語であるが「家歌記」と呼んでおきたい。こういう「歌群」があるべきである。それは、一子相伝、師資相承に関わる秘密の書であり、宗家、家元の主だけが知りうるものである。私は、晩年の定家は、この御子左家の「家歌記」となる「歌群」を編成して、そうした「家歌記」を後継者の為家に伝授しようとしていたと理解している。南北朝期の二條流の歌人頓阿は『百人一首』の巻子が「二條の家の骨目」であるといったが、本当に大事な「骨目」はこの歌集ではなく、それを教材として使って、定家が為家に口述で伝授した御子左家の奥義である。そしてこの奥義の伝授は、残念ながらどこかで途絶えてしまったのである。これは多分に想像が勝った推測であり、私のような和歌史の素人、定家研究の素人ならではの指摘であると思うが、この思いは容易に私の脳中から去らない。

堀田善衛
『定家明月記私抄』正・続

なお、定家の伝記『定家明月記私抄』、『同続編』を書いた堀田善衛は、定家が、承久年間(一二一九~一二二二)頃に大きく変貌していると言う。「承久以後になると、歌論は次第に色濃く歌道という、和歌芸の完成というよりは、その固定化、定式化への意図が強く出て来るのである。したがって、歌道はまた家道に通じるようになる」のであり、「承久三(一二二一)年の…『顕註密勘』…跋文には「こればかりもかれこれつたへ、…返々(かえすがえす)も窓のほかに出され侍(はべる)まじ」と明らかに書いてある。「窓のほかに」とは、家の外に出すな、門外不出の秘伝とせよ、と子孫に対して命じているのである¹⁰」。そして、五年後の嘉禄二(一二二六)年の『僻案抄』の奥書には、「今耄久(ぼうきゅう)ノ期(耄老のとき)ニ迫リ、余喘ノ尽クルヲ顧ミ、愚老ノ歿後ニ至リ、遺孤(残された子孫)ノ蒙昧ヲ教フルタメ最要ヲ抽キテ、密々染筆スル所ナリ。此ノ草(草稿)注付ノ後、拾遺相公一人ノ外、更ニ他見セズ。」とある¹¹。相公は参議の唐名、後継者の為家を指す。「相公一人ノ外、更ニ他見セズ。」とあるように、御子左家の後継者である為家一人に読ませる歌書、その他の者の閲覧を厳禁する秘密の歌書、これが「家歌記」である。

『僻案抄』(ウィキペディア)

私は、今日伝わる『百人一首』はお手軽感のある歌集だと指摘したが、これについてはある専門研究者から、当時の百首歌の流行との関連性を考察するようにとの指摘を受けた。百首歌が流行していたこの時期には、百首というのは一つの標準的な歌集のサイズであって、特にお手軽というべきではないという指摘である。確かに、平安時代後期、十二世紀頃から、様々な「百首歌」が現れた。村井の書も、そうした時代の特色を「2 百首歌の時代」¹²として描き出している。ただ、この「百首歌」は、一人の歌人がいずれかの主題で百首の和歌を詠むという趣向が基本であり、それを書き残した歌人の単身の歌集も何点かある。定家も、生涯にわたって二十回以上、百首歌を詠んでいる¹³。だが、盛んだったのは、何人かの歌人の各々が詠んだ百首の和歌を集めたところに成立する「百首歌」と言う歌集の形態であった。堀河院の『堀河百首』(『堀河院御時百首和歌』)は十六人の歌人による千六百首の歌集であり、崇徳院の『久安六年御百首』は十四人、千四百首、後鳥羽院の『正治二年院初度百首』は二十三人、二千三百首である。また、院は建仁元(一二〇一)年に多数の歌人に「百首歌」の提出を命じ、翌年それは『千五百番歌合』、千五百番の歌合せ、右方と左方で合計三千首の壮大な歌集となった。

またこの時期には、もっとコンパクトに、「五十首」を詠むことがあった。「院句題五十首」の場合は、後鳥羽院、良経、慈円、俊成卿女、宮内卿、定家の六名が各々自作の五十首を提出している。和歌の世界では、実力が足りなくても、たまたま名歌を作ってしまうことがある。この「偶歌」ではなく、本来の作歌の力を示す名歌を生み出すためには、一人で五十首なり百首なりを詠んでその力量を示してみせねばならない。それはちょうど現代社会での研究者が、たまに所属機関の査読もない紀要に資料紹介や小論文めいた記事を載せたり、とっくに時効になっている旧説をなぞっただけの新書程度の入門書を書いたりしているのではまともな研究者としての評価の対象にさえならないようなものである。やはり相当な努力を尽くして、相当なボリュームに達する詳細な専門研究書を単著で世に問うてこそ、研究の過程もあらわになり、研究者として認められるのと似ている。五十首歌、百首歌にはそういう意味でその歌人の作歌の力を示す重厚な迫力がある。

そしてここに、『百人一首』と「百首和歌」や「五十首和歌」との決定的な違いがある。「百首和歌」の場合は、そこに含まれる百首の和歌は、いずれも作者の歌人自身によって選ばれた自撰の和歌であるのに対して、『百人一首』の場合は、そこにある和歌は、歌人自身によってではなく定家によって選ばれた他撰のものなのである。「百首和歌」は重厚な作者自撰の和歌集、『百人一首』は作者本人の意向を聞きもしないで排除した藤原定家選の和歌集、この百八十度の異なりが、両者の決定的な違いなのである。ただし、古くは「萬葉集」の歌人の和歌を採択しているし、平安時代の勅撰和歌集からの和歌の採択もあり、その作者の歌人はすでにはるか以前に物故しているのであるから、どれがその歌人自身にとって会心の作品であるのかを直接に聞くすべはないのであり、各人から自撰の和歌一首を集めることはもともと不可能なことであったのだが。

『時代不同歌合』
(『歌仙-王朝歌人への憧れ-』)

このほかに、百首歌の先例として考えるべきなのは『時代不同歌合』である。この歌集では、百人の歌人の和歌が一人三首ずつ、合計三百首集められて、編者の後鳥羽院によって選ばれている。ただ、これは「百首歌」とは題されていない。そこで、定家がこうした先例の「百首歌」という用語法に準じたならば、『百人一首』は百人の歌人の和歌を一人百首ずつ集めて合計一万首と言う膨大な歌集になったであろうし、博覧強記の定家であれば不可能ではなかったと思う。しかし、成立したのはそういうものではなく、一人一首ずつで合計百首のコンパクトな歌集である。これはむしろ『時代不同歌合』の構成に近い。百人を二組に分けて、五十番の歌合せに設(しつら)える趣向も、各人三番、合計百五十番に編集した『時代不同歌合』に似ている。

しかし、『時代不同歌合』で百人の歌人の和歌を三首ずつ選んだのは後鳥羽院である。院はすなわち、勅撰和歌集の編纂を命じたり、『新古今和歌集』では自ら推敲を重ねて度々の改編、個別の和歌の採否の変更を命じたりした帝王である。日本の和歌の道は、天皇(上皇)を中心に据えた皇室の文化として花開いてきた。そこでは、 天皇(上皇) には、唯一人、自分の考え一つで和歌の採否を決定する帝王としての取捨選択の権能が認められていた。それは、 天皇(上皇) という立場であればこそ許された特権である。それを定家は、中堅の公家にすぎないのに、天皇からの勅命もないのに勝手に同じことを行っている。冷泉家所蔵の『百人秀歌』には、「上古以来の歌仙の一首、思い出づるに随ひて之を書き出す。名誉の人、秀逸の詠、皆之を漏らす。用捨は心に在り。自他傍難有るべからざるか。」という、定家の言とされる識語が付いている。 後鳥羽院が行なったことは自分でもできる。これはあまりにも不遜な、中級公家の身分を忘れた暴挙である。そして私には、地位の低い公家の定家がこういう「歌集」を作るような不遜な行為に出たとは思えないのである。他方で、「百首歌」と『百人一首』ではボリューム感がまるで違う。私は、専門家の指摘にもかかわらず、『百人一首』は「お手軽」という印象を改めることはなかった。

『百人一首』の誕生譚がこれまで混乱を極めてきたのは、その制作意図がよく見えないことに由来するのではなかろうか。「百首歌」の場合は、歌人を選ぶ天皇、上皇は、選出した歌人に、例えば春の歌二十首、夏の歌二十首、秋の歌二十首、冬の歌二十首、恋の歌何首、旅の歌何首、その他雑の歌何首、合わせて百首という編別を示して、詠むべき課題を出して制作意図を明らかにしていた。命を受ける側の歌人も、たとえば「春の歌」の部では、開花を待ち望む歌、つぼみのふくらみに期待する歌、五分咲き、七分咲きを楽しむ歌、満開の美しさを讃える歌、散る花を惜しむ歌、その後の青葉の歌と、二十首のうちで季節の移ろいを見事に表現してこそ名手である。それなのに、『百人一首』の場合は、そうした編別が明らかでなく、編成の混乱が様々な憶測を呼ぶ。織田正吉の『絢爛たる暗号―百人一首の謎を解く』¹⁴の問題提起から数十年間に、後鳥羽院への思慕と式子内親王への恋慕を読み解いた者、水無瀬での遊興を追憶したとする者、一幅の風景画とする者、易経だとする者、曼荼羅だとする者、魔方陣だとする者など、定家の編集意図に関する多数の推測が世に現れては消えていった。だが、そのいずれもがどこかでうまく行っていない。

『百人一首』の場合は、後世の研究家が、定家を真似して百枚の色紙に書写して歌集の主題を考えるのは作業が大掛かり過ぎて敬遠されるであろうが、幸い、「かるた」という小紙片になっているので、江戸時代以降の研究家は、眼前にジグソーパズルのように百首を並べて、絵画鑑賞的な発想で考えることができるようになった。古来、和歌集は横に長い巻子として物語のように展開して理解されてきたものであるが、「かるた」と言う表現形式の登場によって、これを十個掛ける十個のピースで成り立つ絵画として把握するという発想が生まれる。あるいは「かるた」札四枚を一単位として、生じる二十五組のピースを五組掛ける五組の構成で組み立てて考えることもできるようになる。共通する言葉のつながりが鎖のように、接着剤のように機能する。だが、こうした理解はどこかがうまく行っていない。


¹¹ 村井康彦『藤原定家「明月記」の世界』、一二頁。

¹² 堀田善衛『定家明月記私抄続編』、ちくま学芸文庫版、ちくま書房、平成八年、一三八頁。

¹³ 堀田善衛『定家明月記私抄続篇』、一四〇頁。

¹⁴  村井康彦『藤原定家「明月記」の世界』、二四頁。

¹⁵ 高野公彦『明月記を読む 定家の歌とともに 下』、短歌研究社、平成三十年、一五七頁。

¹⁶ 織田正吉『絢爛たる暗号―百人一首の謎を解く』、集英社、昭和五十三年。

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