安土桃山時代から江戸時代初期(1603~52)、前期(1652~1704)に、北九州、京都、大坂を中心に流行したカルタ遊技を支えた初期の国産カルタを天正カルタと総称する。これは、構成が南蛮カルタと同じ一組四十八枚で、(1)手描き、手作りの物と(2)木版摺りの物とがあった。この天正カルタは南蛮カルタの強い影響下に制作されていると思われるので、その形状を分析すればモデルとなったポルトガルのカルタの形状が分かる。それを探求してみたい。

(1)手描きの天正カルタの史料として今日伝わっているのは①「南蛮文化館」蔵のカルタ [1]一組(但し残存するのは四十二枚)と、②「遊戯史学会」設立時の報告で私が紹介した 天正カルタ [2]一組(但し残存するのは四十六枚)であり、ほかに個人コレクションに帰したものや骨董屋から商品として紹介されたが価格が高額すぎて購入を見送ったものを数組見たことがあるが、ここで史料として活用することは叶わない。この数組のカルタのほとんどは、表面の図像は異なっても裏紙は共通して金裏ないし銀裏で、比較的に時代が下がる。

初期手描き天正カルタ
初期手描き天正カルタ
(南蛮文化館蔵、江戸時代初期)

①「南蛮文化館」蔵の一組は裏紙がヨーロッパのカルタと同様の市松模様であり、特に古い。このカルタはカードが縦七・三センチ、横四・五センチで、横幅が縦の六十にパーセントという大型で細長いものであり、この点でも、もっと小型で横幅の比率が高くなる他の天正カルタと一線を画している。元々日本に伝来したポルトガルのカルタ、南蛮カルタは、縦が九センチ程度の大型のものと推定される。これは十六世紀当時のヨーロッパのカルタの標準的な大きさに合致しているが、①「南蛮文化館」蔵のカルタはこれに比べると一回り小さい。だが、後世のカルタよりは一回り大きい。表面の図像は墨摺りの上に赤、黄、緑の三色の顔料で彩色されていて、「一」のカードのドラゴンが炎に包まれた火焔龍であり、絵札は人物像が立体的で動きが感じられ、顔付きはアジア人で衣裳は中国風である。なお、「オウル」紋の馬が正面を向いている。もう一点極めて重要なのは、このカルタでは、数札の紋標が「ハウ」の紋標は緑色、「イス」の紋標は赤色、「コップ」の紋標は上部が緑色で下部が赤色、「オウル」の紋標は赤色に整然と塗り分けられており、一目で識別できるようになっていることである。私は、スペイン、セビリア市に残るフロレス・カードを最初に見たときに、数札の紋標「ハウ」と「イス」のいずれにおいても赤色と緑色が入りまぜて塗られていて両者の区別がし難いことに驚かされた。もしこれが当時のヨーロッパにおける標準的なカルタ図像の彩色であるとすれば、日本のカルタで紋標は紺色と赤色に截然と分けられているのは日本に伝来してからの工夫、改良ということになる。この「南蛮文化館」蔵のカルタにすでにそれが表されていることは特筆するべき日本カルタの特徴である。

手描き天正カルタ
手描き天正カルタ
(滴翠美術館蔵、江戸時代前期)

②の天正カルタはアメリカのコレクターが所蔵していたもので、私もかかわって昭和末期(1985~89)に芦屋市の滴翠美術館に収まった。四十八枚の手描きの天正カルタであるが、その大きさ、図像は滴翠美術館が以前から所蔵していた、元禄年間(1688~1704)の作とされている手描きのうんすんカルタとそっくりであり、同じ時期、同じ工房の作と考えられる。両者はうんすんカルタから過剰なカードを抜いて四十八枚を一組にして、骨董市場で希少価値の高い天正カルタに仕立て直したといわれても否定できないほどに酷似している。だが、このカルタにはちょうど四十八枚が収納できる元箱がついていた。その蓋には、中央に「かるた」の文字があり、周囲を稲を刈り取った後の田、「刈田(かるた)」という江戸時代前期(1652~1704)の呼称にちなむ蒔絵で飾ってある。この元箱の存在により、これが元来四十八枚一組のカルタであること、「刈田」という表記が通用していた時期のものであること、元禄期(1688~1704)かどうかは再検討を要するがいずれにせよ同じカルタ屋で、たぶん同一の職人によって、図像が酷似するうんすんカルタも作られていたことが分かり、この二種類の手描きカルタが同時期に併存していたことも分かった。その図像を見ると、「一」のカードは火焔龍であり、数札の紋標が「ハウ」は緑、「イス」は赤、「コップ」は緑、「オウル」は赤に整然と塗り分けられており、絵札は人物像が立体的で動きが感じられ、顔付きはアジア人で衣裳は中国風である。なお、「オウル」紋の馬が正面を向いている。

(2)一方、木版刷りの天正カルタについては彩色の分かるカルタの実物は③滴翠美術館蔵の「ハウのキリ」[3]一枚しか残されていないが、④明治期(1868~1912)の『 うなゐのとも 』第五編[4]に表面四枚(「イスのロハイ」「イスのキリ」「イスのウマ」「コップの五」)、裏面一枚、合計五枚の江戸時代初期のカルタの図像が掲載されている。これについては、さらに清水晴風の手控え『 歌留多乃類 』に四枚(「ハウの二」「イスのソウタ」「イスの五」「オウルの五」)の表面の図像があるので合計して表面八枚、裏面一枚の史料と言える。

色彩は分からないが図像が分かるのは版木の史料で、⑤永見徳太郎が発見し、現在は滴翠美術館蔵の「カルタ版木硯箱」[5]、⑥平成年間(1989~2019)に発見された「 天正カルタ版木硯箱[6]、⑦神戸市立博物館蔵の「 カルタ版木重箱 (その1 その2)[7]、⑧『美術・工芸』誌掲載の「カルタ版木莨盆」[8]、⑨滴翠美術館蔵の「天正カルタ版木煙草盆」[9]が知られている。このうち③滴翠美術館蔵の「ハウのキリ」のカードは、木版で摺られた用紙にヨーロッパのカルタと同じ赤、黄、緑の三色の顔料で彩色されていて、初期の天正カルタの彩色を判断する基準となる。また、カードのサイズは縦六・三センチ、横三・四センチで「南蛮文化館」蔵の手描き天正カルタより一回り小さい。

清水晴風模写の天正カルタ
清水晴風模写の天正カルタ (『歌留多之類』)

④は明治時代(1868~1912)の好事家のグループ「集古会」の展示会に出品されたものを当時の玩具研究の権威であった清水清風が自身の図録『うなゐのとも』第五集に掲載したものである。だがこれには、彩色に木版カルタとしてはあり得ない紫色を用いる誤解があり、裏面に葵紋がデザインされていて制作者の三池貞次が徳川幕府に献上したという荒唐無稽なストーリーが付くなどいかがわしい点がある。「集古会」の展示に出品された当時の所有者は資産家の安田善次郎の松廼舎(まつのや)であったが、関東大震災で実物が消失している。今では手に取っての史料批判ができないのが残念であるが、私は幕末、明治初年に外国人目当てに制作された、天正カルタを装った日本土産の工芸品ではないかと推定していた。ただし、『歌留多乃類』での清水自身による模写を見ると、紫色の加色はなく、軽薄な模倣品の印象は薄い。私の鑑定には異論もありえようが、歴史史料としては危なすぎて参考にできないと判断して留保することは広く同意されると思う。また、この手控えには、もう一組「古代板行繪ウンスカルタ松廼舎(まつのや)主人蔵品」として、無彩色の木版天正カルタの札十二枚がある。「ハウのロハイ」「ハウの二」「ハウの五」「ハウの七」「ハウのソウタ」「ハウのウマ」「ハウのキリ」「コップのロハイ」「コップの二」「コップの四」「コップのソウタ」「コップのウマ」である。図像は少し簡略になっているが、ほぼ同じ時期のものであろう。⑤については1-1で扱ったが、他の版木のカルタと大きく異なり、ここでは比較の外に置く。


【追補】
なお、ここで、令和四年に新たに発見した史料の追加をしておきたい。遊技史研究者の草場純さんに教えられたところから始まった研究の成果である。きっかけを与えてくださった草場さんには深く感謝している。

名古屋博物會目録

発見した史料は、国会図書館デジタルコレクションに収められている『尾張名古屋博物會目録』第壹~第五の五冊本である。江戸時代後期に名古屋の好事家が集まって、珍しい器物を見せ合う骨董趣味の有志の会合を開いていたが、その記録であり、天保八年から少なくとも安政六年まで続いていた。記録は第壹冊から第五冊まであるが、そのうちの第壹冊から第四冊にかけて、次のようなカルタ関係の出品記録がある。

①「西洋加留多」(第壹分冊、天保八年正月廿五日) 

②「骨牌 二品」(第貳分冊、天保十二子(丑?)年正月廿五日)

③「將軍カルタ 五十對」(第貳分冊、天保十四卯年正月廿五日)

④「カルタ 裏ニ三池住貞次」(第参分冊、弘化二年己正月廿五日)

⑤「カルタ 紅毛」(第四分冊、嘉永三戌年正月廿五日)

⑥「カルタ 十二」(第四分冊、嘉永四亥年正月二十五日)

これのうち、①「西洋加留多」は、ポルトガル式の「南蛮カルタ」であるのか、オランダ式の「紅毛カルタ」であるのか、あるいは今日では「トランプ」と呼ばれている英米式のものであるのかが分からないのでここでは除外する。②「骨牌」は、この名称からすると日本の「めくりカルタ」系のもののように思われるのでこれも除外する。③「将軍カルタ」は「五十對」とあるように、「絵合せかるた」と思われるので除外する。⑤「カルタ 紅毛」は、「紅毛」と言うのであるからオランダ系のカルタの可能性が高いのでこれも除外する。

名護屋博物會三池カルタ

そうすると残るのは④「カルタ 裏ニ三池住貞次」と⑥「カルタ 十二」の二点である。これのうち④は、まさに三池カルタである。しかも、三池カルタのうちでも「貞次」が活躍していた時期の者であることが分かる。「三池住貞次」と明示されている史料は、滴翠美術館蔵の「ハウ」の「キリ」に次ぐ二例目である。この記述だけでは何枚のカルタがあったのかは分からないし、画像もないのでどの札であったのかも分からないが、史料の少ない「三池カルタ」の歴史研究にとっては貴重なものである。一方⑥は、この記述ではどのようなカルタであるのかが分からないが、幸いなことに表面と裏面の手描きの図像が掲載されており、表面は「三池カルタ」の「コップ」の「キリ」の図柄であり、裏面は中央に「三池住貞次」の文字もはっきりとある図柄で、明らかに「三池カルタ」であるし、「貞次」関連の資料としては三例目ということになる。また、この巻の目次にある「十二」という数字の表記は、「キリ」が「一」から数えて「十二番目」の札であることを示すものと思われる。江戸時代後期の名古屋の好事家たちは、カルタ札の図像が意味するところを正確に理解していたことを意味する。「三池カルタ」の普及・伝承史の研究からすると、とてつもなく貴重な証言と言うことになる。これは史料的価値の極めて高い物品史料である。

これまで、「三池カルタ」の史料としては、明治年間にあった東京の「集古會」に出版されたものが何点かあり、主催者の清水晴風が手控帳に図像を残していたので貴重な史料になっているが、これだけであった。明治年間には何組かの残欠があった様であるが、関東大震災や東京第空襲で焼失したのか、現在はどれも残っていない。それだけに、ここに、ほんのわずかな断片的な情報であるが、江戸時代後期に、名古屋の好事家が珍重していたことが分かる史料が発見できて幸いである。


[1] 『王朝のあそび』朝日新聞社、昭和六十三年、三六頁。

[2] 江橋崇「海のシルクロード―トランプの伝来とかるたの歴史」『遊戯史研究』第一号、遊戯史学会、平成元年、一五頁。

[3] 「古典の遊び日本のかるた」『文藝春秋デラックス』昭和四十九年十二月号、文藝春秋社、一頁。

[4] 清水晴風『うなゐのとも』第五編、明治四十四年、一頁。

[5] 山口吉郎兵衛『うんすんかるた』、リーチ(私家版)、昭和三十六年、三一頁。

[6] 江橋崇『ものと人間の文化史173 かるた』、法政大学出版局、平成二十七年、九二頁。

[7] 山口吉郎兵衛、前引注5『うんすんかるた』九頁。

[8] 「天正かるたとうんすん多加留(本文の表題、目次の表題は加留多)」『美術・工芸』昭和十七年五月号、美術・工芸編輯部、昭和十七年、五八頁。

[9] 山口吉郎兵衛、前引注5『うんすんかるた』、二九頁。

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