(一)「花鳥合せ」は実在したのか

江戸のかるた文化の衰退と入れ替わって登場したのが近代のかるた文化であるが、その誕生を告げた最大の変化は、江戸時代の「武蔵野」に発した木版の花合せかるたが、明治十年代(1877~86)末期の販売の公許をきっかけに大流行し、その中で、遊技法でいえば「横浜花」と呼ばれていた、「めくりカルタ」の遊技法に似た、横浜の遊郭から発祥した複雑な「八八花札」の遊技法が盛んに用いられ、また、花札のカードの図像にも大きな変化が生じたことであろう。最も目につくカード図像の変化は、紋標「松」「梅」「藤」「菖蒲」「薄」「紅葉」のカス札から和歌が消えたことである。江戸時代後期からの伝統が消えた。もう一つは、柳の役物カードで、夕立の雷雨の中を唐傘をつぼめて走る男の図像が、降り続く長雨の川岸で、柳の枝に飛びつく蛙を見守る貴族(小野道風)に交代したことであろう。これも元禄年間の花合せからの長い伝統を廃したのである。この変化については、私はすでに『ものと人間の文化史167 花札』で詳述した。また同書では、花札が「花鳥合せかるた」から変化して誕生したとする通説を根底から否定した。もはやそれをここで繰り返す必要はなかろう。ただ、同書が一般書であったので、詳細な説明ができなかった部分があるので、それをここで補足しておきたい。

一つは「花鳥合せかるた」と呼ばれていたものの理解である。私は「花鳥合せ」よりも古い時期の手描きの「武蔵野」を発見し、さらに、元禄後期(1696~1704)の「花合せかるた」を発見した。これに照らして考えれば、まず二百枚規模の手描きの「花合せかるた」が発祥し、その後、それを五十枚規模に縮小抽出した手描きの「武蔵野」が登場し、その後に「花鳥合せ」が登場し、さらにその後に木版の「武蔵野」が登場したと想定される。「花鳥合せ」は古くから存在する「花合せかるた」のバリエイションの一つであって、安永年間どころかそれよりずっと以前から一組数百枚の「花合せかるた」も、十二紋標・四十八枚の「花札」も存在していたのであるから、清水晴風、村井省三らが言うような、「花鳥合せ」が木版の「花合せかるた」、「武蔵野」の前身ではないことは明らかである。

なお、「花鳥合せかるた」という呼称自体が正体不明で、江戸時代には使われた痕跡はなく明治時代になっても明治三十年代(1897~1906)の清水晴風による使用が嚆矢である。しかも、清水がこの言葉を用いたのは、骨董商から入手したこのカルタを包んであった紙にそのように上書きしてあったからであり、この、骨董商売上の都合でメモ書きされただけかも知れない不確かな根拠でなされた名称は、歴史用語として用いるのには信頼性が足りない。

実際には「花鳥合せかるた」とされるかるた札の図柄に鳥類が登場する比率はさほどに高くない。だから、若し清水がこのように呼ばなければ、「花鳥合せかるた」は存在しなかったであろうと思う。だが、江戸時代後期(1789~1854)から明治時代(1868~1912)にかけて、花鳥風月をテーマとする絵合せかるたが存在したことは事実なのであって、何組かを確認することができる。私は、これを仮に「花鳥風月絵合せかるた」(以下、花鳥風月かるた)と呼びたい。

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