三 「百人一首歌かるた」の動向 (四)歌かるたの衰退と「萬葉集歌かるた」の勃興 松成堂の「源氏歌かるた」 「百人一首歌かるた」以外の「歌合せかるた」類は、明治時代の終わり頃までにはこれをなお愛好していたごく一部の趣味人を別にすれば過去のものとなっていた。江戸時代に広く愛好されていた「古今集歌合せかるた」「自讃歌合せかるた」「三十六歌仙歌かるた」「伊勢物語歌合せかるた」などは近代化の波の中に没して姿... 館長
三 「百人一首歌かるた」の動向 (三)競技かるたの登場と展開 明治年間(1868~1912)に、大人の間では、正月にかるた会を催して男女が共にこれを楽しむ習慣が盛んになり、当時としては数少ない若い未婚の男女の公然とした交際の機会として流行した。尾崎紅葉の『金色夜叉』はそうした「かるた会」の描写で有名である。そして、明治二十五年(1892)頃に、東京帝国大学の学生の間でこれを競技と... 館長
三 「百人一首歌かるた」の動向 (二)子ども用「美術教育百人一首」の登場と衰退 もう一つ、近代の日本での「百人一首かるた」というと見過ごせないのが、明治二十年代(1887~96)以降に、もっぱら子どもを対象にして「教育玩具百人一首」などと名付けられた粗略なカルタが制作、販売されるようになったことである。それは新時代の西洋紙、機械印刷技術を活用したもので、当初は草書体のものであったが、後に活字印刷の... 館長
三 「百人一首歌かるた」の動向 (一)「百人一首」批判の高まり 「百人一首」のかるたは、明治年間(1868~1912)にも盛んに用いられたが、順風満帆であったわけではない。それは様々な批判にさらされてもいた。 まず、何よりも、「百人一首」という歌集の評価が定まらなかった。この歌集が日本の和歌史を飾る百人の優れた歌人、あるいは感動的な百首の和歌を集めたものであるとは考えられないという... 館長