明治年間(1868~1912)に、大人の間では、正月にかるた会を催して男女が共にこれを楽しむ習慣が盛んになり、当時としては数少ない若い未婚の男女の公然とした交際の機会として流行した[1]。尾崎紅葉の『金色夜叉』[2]はそうした「かるた会」の描写で有名である。そして、明治二十五年(1892)頃に、東京帝国大学の学生の間でこれを競技として遊ぶグループが現れ、「緑倶楽部」、「弥生倶楽部」などが発足した。この動きは一時下火になったが、明治三十五年(1902)頃からまた盛んになり、大小三十余りの「倶楽部」ができて技量を競い、ときに他流試合なども催された。そこに決定的な影響を与えたのは「競技かるた」の登場である。

黒岩涙香
黒岩涙香

明治三十七年(1904)に黒岩涙香の「萬朝報社」は「東京かるた會」[3]を設立して、同年二月十一日に、すべて平仮名の同形活字を用いて五文字、五文字、四文字の三行に分かち書きして印刷した「取り札」の「標準かるた」[4]を使った第一回の競技会を開催し、これに多くの倶楽部から選手が参加したので、ここに競技かるたという新しいジャンルが成立した[5]。その後、「東京かるた會」を筆頭に同好者の組織が多く出来上がり、活発な活動が続いた。「競技かるた」の遊技法は、読まれた和歌の「下の句」札を素早く取り、「ちらし」のようにより多くのカードを集めるか、「源平」のように自陣のカードを取り尽くすかを目指すことになる。そこでは何よりもスピードが求められており、書かれた和歌の調べを楽しんだり、その歌意を味わったりする文芸遊技の世界からは遠く離れた。だから、「競技かるた」は一方で「百人一首歌かるた」を他の「歌合せかるた」のような衰退から救って近代社会で継続させたという大きな功績を持つと共に、このかるたの遊技を江戸のかるた文化からは遠いスポーツの世界に連れて行ってしまったという罪も担うこととなった。

「標準かるた」
「標準かるた」
『かるた界』
『かるた界』

ただし、こうして、競技かるたの遊技法が和歌の合せかるたのそれを逸脱して、伝統を破壊していたと言っているからと言って、カード・ゲームとしてのそれの評価が低いというとではない。いや、むしろ逆で、私は、世界のカード・ゲームの中でも百人一首の競技かるたはゲーム・スポーツとして優れていると考えている。まず何よりも、世界のカード・ゲームの中で、音声を組み込んだ遊技法は珍しい。各国のトランプの歴史を振り返っても、ゲームの中で、「パス」「ステイ」「ストップ」「ダウト」などと発生を伴うものは多数あるが、最初から最後まで発声がゲーム進行の主役であるものはほとんど見たことがない。ヨーロッパには、都市の街頭での売り子の掛け声を集めた「パリの掛け声」「ロンドンの掛け声」などというゲーム・カードはあるが、これも十九世紀に入ってからの新考案であり、17世紀、江戸時代初期(1603~52)、前期(1652~1704)の日本ほどの古い伝統を持つものではないし、もしかしたら、開国後の日本で子どもの「イロハかるた」の遊技を見て思いつき、それを模倣した工夫であるかもしれない。

次に、発声系の遊技法の中で特に百人一首かるたが優れているのは、いわゆる「決まり字」の存在である。このかるた遊技では、読み手が発声した瞬間に該当の札が特定され、それを獲得するべく機敏に動かなければならない。「む」「す」「め」「ふ」「さ」「ほ」「せ」の音で始まる七枚の札は、各々一枚しかないので、この音が発せられたら即出動であるが、他の札には、同音で始まる札が二枚以上あるので、「決まり字」が読まれるまで出動してはならない。例えば「あさぼらけ」は、二枚の札が同音であり、その次が「有明の月と見るまでに」の「あ」であるのか、「宇治の川霧絶え絶えに」の「う」であるのかを聴き分けてから出動である。早とちりして違う札を取りに行けば、「お手付き」の罰則が待っている。ところが、遊技が進行してどちらか一方の「あさぼらけ」が読まれて取られた後では、「あさぼらけ」で取りに行かないと間に合わない。いや、他には「あさぢうの」という札があるだけだから、「あさぼ」と読まれたらそこで出動になる。この「あさぢうの」がとられていれば、「あさ」で取りに行くことになるし、遊技の終盤、「あ」で始まる他の札が出尽くしていれば、「あ」と聞いただけで出動になる。このように、遊技の展開に応じて、どの音を聞いたら取りに行くのかが変わってくるというのは、記憶力の力試しであり、とても高度な音声ゲームであると思われる。

もう一つは聴力である。以前に、女流のチャンピオンを長く続けていた女性選手と話していて、なぜそんなに早く取れるのかといったら、私たちは半音で取りに行きますから、と説明してくれた。例えば「は(ha)」という音の発声は、まず「h」であり、次に「a」が来る。「か」であればまず「k」で次に「a」である。だから耳を澄ませて、最初の「h」で取りに行く。これは特に遊戯の終盤、同音で始まる札が少なくなった時に有効な技だというのである。そして、別の機会にこの話を男性のチャンピオンを長く続けていた選手にしたところ、いや自分はもっと早く、読み手の息を吸う音で取りに行きます、といっていた。和歌の読み手は、次に出す音が「は」か「か」かで、それに備えて息を吸うときの口の形が微妙に変わり、したがって、息を吸う音が変わってくるというのである。

私が、競技かるたは伝統のかるた遊技とは異なる、しかしスポーツ遊技としては研ぎ澄まされたものだと実感したのはこの時であった。また、女性選手が引退したのちに会う機会があったので、まだまだやれそうに見えたのになぜ引退したのかと無遠慮に聞いたところ、もう膝が持ちませんと言われた。遊技の試合では、少しでも早く取りに行くために、試合中は中腰で膝に力を込めて負担をかけ続けており、長年第一線で活動すると膝が壊れるのだそうだ。このときも、競技かるたはスポーツだという実感を強めた。

板かるた
板かるた

なお、文芸の遊技から脱してスポーツ競技化してしまったものに、幕末期(1854~67)以降に福島県の会津藩にあり、その後、北海道に移った「板かるた」がある。この遊技法では、下の句を読んで下の句を取り合うということになっており、あたかもイロハかるたと同じような幼児向きの遊技法を大人が行うことになる。遊戯法がシンプルであるだけ力任せになるところがあり、札の奪い合いが勇壮だと鼓舞されたりするのである。不思議な遊戯法である。

百人一首に激しさ、争奪の火花が散る雰囲気が加えられた。こうして近代社会では「歌合せかるた」の姿は大きく変貌したのであるが、正月に家庭で遊ぶ遊技も滅んだのではない。古くは金子光晴[6]、森田曠平[7]、昭和前期では大岡昇平[8]、飯沢匡[9]、生方たつゑ[10]、田中澄江[11]、田辺聖子[12]、吉本隆明[13]、森茉莉[14]、皆川博子[15]などの思い出が記録にあるが、ほかにもいくらでもあろう。「競技かるた」用の「標準かるた」では実用性に徹して「上の句」札も「下の句」札も文字だけであったが、一般家庭用の「百人一首かるた」では「上の句」札に歌人像が載せられていて、このかるたの伝統や優雅な雰囲気を楽しめるようになっていた。かるたの制作では、洋紙と機械印刷を取り入れて、「切り放し」製法にするものが競技かるたでも家庭用かるたでも増えた。しかし、和紙を貼り合わせて制作する伝統的な製法を踏襲していた京都を中心に、伝統であった裏紙を貼り合わせて「張抜き」「縁返し」を行う製法のものも残された。こうした「百人一首かるた」の最高級品は漆塗りの木箱、高級品、中級品は杉材などの木箱に収められて提供され、それがこのかるたの風格、高級感になり、一般の家庭での正月の遊技具として人気を得ていた。「縁返し」手法を残した点が「百人一首かるた」の特徴で、すべて「切り放し」の製法になった「イロハかるた」と違うところであり、高級な「百人一首かるた」を制作、販売することにより、京都こそが優雅なかるたの本場であるとするブランド・イメージの確立に大いに役立った。

「愛国百人一首」各種
「愛国百人一首」各種

こうした一連の経過を経て「百人一首歌かるた」は京都中心という伝統を維持しつつ近代化を遂げて、人々に遊ばれ続けることができた。昭和前期(1926~45)に軍国主義の風潮が強くなり、「百人一首」は軟弱であるとして「愛国百人一首」が鳴り物入りで制作されたことがあるが、官が上から押しつけるかるたが人心を得ることはできずにすぐに消えた。私は昭和の終わり頃に、昭和十年代(1935~44)の「百人一首歌かるた」で、天皇や皇族が遊技具の図像にあるのは不敬だとして御簾を下げた図像に変えたカードを発見してこれを「御簾がくれ」と命名して蒐集したこともある。今はすべて大牟田市の「三池カルタ・歴史資料館」に渡してある。この小発見も、当時は誰もが目を丸くして驚いたものだが、その中の一人が自分の最新の研究のように発表している[16]ので驚いた。いずれにせよ、そこには、江戸時代初期(1603~52)に崇徳院を皇族から追放したかるたのような緊張感はなく、軍国主義の時代の風潮が発した騒々しい乱入者にとどまっていた。

御簾隠れ百人一首かるた
御簾隠れ百人一首かるた
御簾隠れ百人一首かるた2
御簾隠れ百人一首かるた2

[1] 岩井茂樹「恋歌の消滅―百人一首の近代的特徴」『百人一首万華鏡』、思文閣出版、平成十七年、四八頁。

[2] 尾崎紅葉「金色夜叉」『紅葉全集』第六巻、博文館、明治三十七年、六頁。

[3] 東京かるた会『百人一首 かるたの話』同会、大正十五年。津久井勤、大平修身「競技かるたの歴史と今後の課題」、前引注1『百人一首万華鏡』、九二頁。

[4] 新橋堂『標準かるた』、明治三十七年。

[5] 伊藤秀文「かるたの歴史と遊び」『別冊太陽百人一首』、平凡社、昭和四十七年、一八七頁。盛野兼廣「競技かるた―その歴史と現状」糸井通浩編『小倉百人一首を学ぶ人のために』世界思想社、平成十年、二六九頁。

[6] 金子光晴「百人一首雑感」、同前『別冊太陽百人一首』、一八四頁。

[7] 森田曠平「百人一首あれこれ」、『季刊墨スペシャル第02号 百人一首』、芸術新聞社、一四五頁。

[8] 大岡昇平「歌がるたの思い出」『神戸新聞』昭和四十九年一月七日。『ゼロからわかる図説百人一首』学研パブリッシング、平成二十四年、六五頁。

[9] 飯沢匡「パロディと百人一首」、『墨』第五十八号、芸術新聞社、昭和六十一年、六二頁。

[10] 生方たつゑ「君がため―」、同前前引『墨』第五十八号、六二頁。

[11] 田中澄江「可留多会と恋歌」、同前『墨』第五十八号、六四頁。

[12] 田辺聖子「『和らぎ』文化のシンボル百人一首」、前引注7『季刊墨スペシャル第02号 百人一首』、〇〇四頁。

[13] 吉本隆明「百人一首の遊び」『短歌研究』平成五年一月号、一二頁。前引注8『ゼロからわかる図説百人一首』、六二頁。

[14] 森茉莉「百人一首と私の少女時代」、前引第三章注9『墨』第五十八号、六五頁。前引注8『ゼロからわかる図説百人一首』、六四頁。

[15] 皆川博子「かるたとり」『銀座百点』銀座百店会、昭和六十二年、三〇頁。

[16]『百人一首への招待』、平凡社、平成二十五年、一六二頁。

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