寛政年間の賭博取締りの実際については『御仕置類例集』[1]『問答集』[2]その他の記録史料に多くの処罰記録がある。また、当時の賭博の実情については江戸町奉行所与力の調査報告書『博奕仕方風聞書』[3]がある。そこには、骰子博奕の「丁半」「投丁半」「大目小目」「ちょぼ一」、役者紋所を応用した当て物の「ひっぺがし」「棒引」、紐籤の「三から」「小増」、独楽を用いる「こま」「源平」、文芸賭博の「三笠附」、雑博奕の「水びたし」「なんこ」等と並んで、カルタ博奕の「めくり博奕」「よみ」「きんご」「むべ山」が取り上げられている。「博奕」と「軽き賭の諸勝負」の区別を廃して賭博行為を一律に厳罰に処するという松平定信政権の新政策が現場に過重な負担を強いている様子が窺われる。

博奕取締りに当局が多用したのが「目明」「岡引」である。三田村鳶魚は、博徒を手先に使うのは悪政の極みとした文化文政年間(1804~30)の記録『滄浪夜話』[4]を引用してその弊害を指摘[5]するとともに、それでもなお当局はこれに頼らざるをえなかった事情を説明している。なお、『滄浪夜話』は博徒が近在の素人を巻き込んで行う博奕として「奇偶(てうはん)」「樗蒲(ちょぼいち)」「輪駒(こま)」「紋付(もんつけ)」「大数(おほめ)」「小数(こめ)」「博冊(かるた)」「十五(きんこ)」「九寸(つう)」「仕掛(しかけ)」「青天(あをたい)」「女久離(めくり)」「宝引(ほうびき)」「三笠(みかさ)」「日懸(ひかけ)」「無尽(むじん)」「富(とみ)」「四文百(しもんびゃく)」等を挙げている。記述には混乱があり、「大数」「小数」は「大目小目」であるし、「日懸」「無尽」は「日掛け無尽」である。「仕掛」「青天」は博奕の種類ではなくその態様、「仕掛けのある博奕」「賭金上限なし(青天井)の博奕」を示す言葉のように見えるし、「四文百」は「百文貸せば利息が四文」という賭金を貸す際の基準のように見えるが、それにしても町医者と思われる筆者は当時流行していた博奕をよく列挙していて参考になる。カルタに関して云えば、「キンゴ」「ツウ」「めくり」に先んじて挙げられている「カルタ」はどういう遊技法なのであろうか。この時期なのでもはや「ヨミ」とも思いにくいが、「カブ」や「キンゴ」と並ぶ賭博系の遊技法であろうかよく分からない。奉行所の手先でライバルを密告、手入れ、捕縛する一方でこうした博奕を自分で開催して当局に目こぼししてもらっていたのでは「目明」「岡引」の利用は博奕の取締策なのか逆にその奨励策なのか分からなくなる[6]

寛政年間(1789~1801)以降の博奕取締りでもう一つ特徴的なのは、とくに関東地方で地方を巡察し、博奕犯罪には現場での捜査権、逮捕権、処罰権などの広範囲な権限を認めて新設された「関八州取締出役」[7]である。関東地方は幕府の直轄領と小藩が入り乱れて存在していて藩境を越えた取締りが困難であって博徒の跳梁を許していたので、職権が関東一円に及び即決ができるこの役職の新設は効果的であったが、それでも博徒の勢力は押さえきれず、幕末期の混乱に結びついた。


[1] 『御仕置例類集(古類集)』、名著出版、昭和四十六年。

[2] 石井良助等編『問答集』第一巻~第六巻。創文社、平成十三年。

[3] 山田清作「博奕仕方風聞書」『未完随筆百種第二』、米山堂、昭和二年、四一三頁。

[4] 「滄浪夜話」『日本経済叢書』第三十二巻、日本経済叢書刊行会、大正六年、六五頁。

[5] 三田村鳶魚「目明」(『江戸ばなし二』昭和十八年)『三田村鳶魚全集』第十三巻、中央公論社、昭和五十年、二二〇頁。

[6] 安倍義雄『目明し金十郎の生涯』中公新書、昭和五十六年。増川宏一『江戸の目明し』平凡社新書、平成三十年。

[7] 三田村鳶魚「八州取締出役」(『捕物の話』昭和九年)同前『三田村鳶魚全集』、一六七頁。

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