松平定信政権が展開した新政策の中で、賭博遊技のあり方に特に関連するのは治安の回復と風紀粛正であった。天明年間には、気候変動によって農業が不振になり、飢饉、棄農、離村、暴動等が頻発し、犯罪が増加するとともに、棄農、離村した人々が都市に流入し、あるいは徒党を組んで博徒集団を形成し、それが治安の大きな妨げになり、地方では郷村支配の脅威にもなっていた。博徒は取締りがしにくい料理屋、武家屋敷、寺社、野外などで賭場を開いて主催し、多くの素人も巻き込んで搾り取りその人々の生活を破壊していた。当局は、大規模な博奕での収益がこうした集団の形成、維持に利用されることを強く嫌っていたので、博奕取締りの重点は博徒による大規模な賭場の摘発に置かれた。博奕で捕縛した場合、その者が無宿者、累犯者、恐喝、傷害、殺人などの余罪のある者であれば遠島、死罪などの重罰に処することも少なくなかった。また、博奕にのめり込んで自堕落な生活を送り、家産を失い犯罪に走る都市の遊民も問題であった。こうした者は、敲き、重敲き、手鎖、人足寄場送りなどに処した。

もう一つ博奕禁止の強化に関わるのが武家社会の風紀、公紀の粛正である。田沼意次政権のもとでとくに都市では享楽的な遊興文化が盛んであった。それを嫌った松平定信政権は、政策の主要な柱であった質素倹約や封建的な秩序の回復も絡めて、衣、食、住の各面で奢侈を摘発し、贅沢を禁止するとともに、文化や風俗の面でも学問の振興や士風の回復を図り、風紀の取締りを強行した。その一環として士分の者が博奕で摘発されたときは遠島、死罪が多く、以前から問題が多かった武家屋敷での博奕は、持ち主が監督不行届で処罰され、又、足軽などの士分に当たらない者が行った場合も、自分が勤める屋敷に他者を引き込んで行えば遠島、死罪、他所の武家屋敷に出かけて博奕に参加すれば江戸払いという差別化が進められた[1]。また、目立っていた僧侶の博奕も僧籍の剥奪や追放と、比較的に重い刑罰で対処していた[2]

『草茅危言』
『草茅危言』

松平定信政権による博奕取締りの強化の跡を見ると、定信の老中職就任直後の天明八年(1788)に博奕取締りの徹底を指示している。そして、寛政二年、三年(1790~91)により徹底した取締りが命じられ、カルタの制作、販売が禁止されたのもこの時期である。この取締り策の強化の陰には、大坂の儒学者、中井竹山[3]の強い影響がある。定信は就任直後に京都を巡視した際に中井竹山と面談し、その後大阪に行き、再び中井と面談している。中井は大坂の儒学者であり、五井蘭洲に宋学を学び、長じて町人儒学の殿堂、懐徳堂[4]の主人となった。中井は定信に経綸の道を教え、当面の世情に対応する施策も具申した。そして、定信が江戸に戻った後にその見解をまとめて『草茅危言』[5]を表し定信に捧呈した。この意見書で具申したのが、博奕に関する二カ条の施策、第一に博奕用品の制作、販売の厳禁、第二に小児の賭博遊技の禁止の実施であり、寛政元年(1789)になされたこの献策が松平定信政権の博奕取締り策の徹底を招いたものと思われる。

『草茅危言』において中井は、骰子やカルタの供給さえ断てば博奕流行の勢いを止めることができるといっている。いかにも半可通の学者が思い付きそうな策である。『草茅危言』には明文では出現しないが、中井は漢学者であるから博奕用具の製造、販売を禁止した清国の立法の動向も知っていて、学者らしくそれもまた論拠にしていたであろうと推察できる。中井には、日本御社会の実情に照らして賭博行為をいかに柔らかく規制して、社会の発展に必要な人智を尽くして幸運を待つ精神を傷付けることなく賭博の嗜好を制御するかという、享保年間(1716~36)以来の幕府の苦心は評価どころか理解もされていない。

もう一点中井が強調したのは子どもの賭けの遊技の禁圧である。『草茅危言』は、毎年正月には女子どもに使用人まで集まって少々の勝負事をするのが通例で、長引けば二月三月まで続いてから止む。たいしたこともないように考えがちであるが、子どもに悪事の稽古をさせるようなもので、子どもは賭博遊技が年々巧みになり、後には大博奕打ちになる。中井は、自分は幼少時よりきちんとした教育を受けているので町の子どもらの賭け事に終始関わらなかったと自慢したうえで、号令を発して正月の賭け事も禁止するべきだと主張した。これもまた中途半端な教育者が容易に主張する俗論であるが、幕府はこれに影響されたのか、正月の子どもの遊技にまで干渉を強めた。

さらにもう一点中井が上申したのが博奕犯の処罰のあり方である。中井は、「博奕の罪を犯したる者は、軽重なく皆牢屋に入れるべし」と主張する。江戸時代中期の博奕犯の処罰は、元禄期以前の死罪か追放刑かという苛烈なものから改めて、軽度の博奕犯には手鎖、預け、謹慎を経て、叩き、重叩きの身体刑と過料中心の連座処罰が採用されていた。それを監獄への収容という身体刑に切り替えると言うのが中井の主張である。この考え方そのものは江戸時代中期(1704~89)以降に各所で唱えられ、各藩でも「徒刑」として採用されていて中井の独創とは言えないが、中井の主張では、博奕犯のことごとくを牢屋にぶち込めと言う過激さが際立つ。刑罰を重くすれば犯罪が減ると言う単純な発想である。

こうして見ると、松平定信政権による幕府の旧来の法制度の改変には十分な調査や検討が欠けていたのではないかと思えてならない。そうであれば、こうした新政策には実効性が足りないのも当然である。寛政年間(1789~1801)には政権の権威にかけてさすがに厳しく執行されたし、全国の各藩にも通達されて、各藩でも取締りが厳しくされた。カルタ制作、販売の禁止を象徴するように、カルタ問屋である「山城屋」の主人が入牢を申し渡されたりもしたが、数年後に定信が失脚すると推進力を失って建て前だけのものと化し、社会の実態としてはカルタ賭博が盛んに遊ばれる文化文政年間(1804~30)の爛熟期に進むことになる。ただ、松平定信政権が打ち出した新しい規範は後代の政権も否定しようがないので残存し、江戸後期の賭博文化は、どこか非合法の後ろめたさを匂わせながら大流行するものとなった。八代将軍の徳川吉宗が登用した儒学者の高瀬喜朴や荻生徂徠に比べると中井竹山の献策はいかにも見劣りがする。賭博規制を諸外国にも例のないような方向に捻じ曲げたのは大いに迷惑な話であった。


[1]警察協会編『徳川時代警察沿革史』上巻、国書刊行会、昭和四十七年、三一二頁。

[2] 寛政期の博奕処罰につき、樋口秀雄『新装版江戸の犯科帳』、新人物往来社、平成七年、一二六頁。

[3] 中井竹山の幕府への接近につき、脇田修「懐徳堂の変質―中井竹山」『(復刊)近世大坂の町と人』、吉川弘文館、平成二十七年、二二七頁。

[4] 懐徳堂における町人儒学について、テツオ・ナジタ著、子安宣邦訳『懐徳堂 一八世紀日本の「徳」の様相』、岩波書店、平成四年。

[5] 中井竹山「草茅危言」『日本経済大典』第二十三巻、明治文献、昭和四十四年、五〇七頁。

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