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三 初期「歌合せかるた」は小型色紙

江戸時代初期(1603~44)の「歌合せかるた」について、それが長方形であるとした史料は存在しない。むしろ、和歌を正方形に近い色紙に書く文化の伝統があったのだから、分かち書きする二枚の色紙も「かるたほどの大きさの正方形に近いもの」と考える方が自然である。実際、江戸時代初期の奉納額は例外なく横幅が縦の長さの八十パーセント以上の正方形に近い形の色紙二枚を並べた図像になっている。

当時のかるたでも、江戸時代前期(1644~1704)に入ってしまうが延宝年間(1673~81)とされる「持明院基時卿筆」の「式紙形百人一首歌かるた」[1]や同時代の「中納言泰時卿筆百人一首かるた」[2]は横幅が八十パーセント以上の正方形に近いカードである。石山寺蔵の「源氏物語かるた」なども同様である。江戸時代初期(1603~52)の「歌合せかるた」は、まだ分かち書きの文字だけのかるたであった時期には「しうかく院」の考案に追随して色紙型であった。この時期にだけ現れて江戸時代前期(1652~1704)に消えた正方形に近いかるたは一つの時期を画する様式として理解ができるので落ち着く。なお、「歌合せかるた」と並ぶ「絵合せかるた」でも、京都の大鏡寺や芦屋市の滴翠美術館などには正方形に近い物があり、海外から伝わったカルタは長方形で日本式のかるたは色紙型というのがその時代の常識であったことが分かる。

色紙型歌合せかるた
(持明院基時筆、滴翠美術館蔵)
色紙型源氏物語合せかるた」
(石山寺蔵、江戸時代前期)
中院通村
(京都大学総合図書館蔵)

ここで最も重要な文献史料は江戸時代中期、享保年間(1716~36)頃の文献、桑林軒『歓遊桑話』である。同書には、歌合せかるたの発祥について「其後中院通村公小倉色紙歌合せ賀留多中立売麩屋何某に命じて作らせ次第追て今専業を所為其職の渡世とす」とある。中院通村は、江戸時代初期の後水尾天皇の側近であった公家である。通村は、その母親が歌学の権威、細川藤孝(幽斎)の養女であり、幼少時は京都府宮津の細川家の居城に住み、幽斎の下で育った。こうした環境であったので、父の通勝と同様に和歌の道に明るく、後水尾天皇の朝廷でも、また、これと接触のあった江戸幕府の徳川家康、秀忠父子からも、重きを置かれていた。この通村が「小倉色紙歌合せ賀留多」を作らせたと言えば、その年代は慶長年間(1596~1615)と推定されるのであり、「歌合せかるた」がこの時期にはすでに存在していたこと、それは「小倉色紙歌合せ」のかるたであったこと、当時すでにこの遊技具は「かるた」と呼ばれていたことが一挙に証明されて、「かるた」の発祥が明らかになる。なお、当時、「加」の文字は清音専用仮名であるので「か」と読むことが明確だが、「賀」は清濁兼用仮名なので、それだけでは「か」と読むのか、「が」と読むのかが確定できない[3]。ここでは周辺の諸事実から「賀留多」を「かるた」と読んだが、連濁して「歌合せがるた」と読んだ可能性を完全に否定することはできない。

もう一つ重要なのは、通村が「小倉色紙歌合せ賀留多」の制作を命じた相手が「中立売麩屋何某」であったことである。私は、この文章を最初に読んだ時には漫然と見過ごしていたが、後にこの「麩屋」を名乗った人物が、食品の麩を扱っていた商人ではなく、書の鑑定では第一人者で、豊臣秀次から「琴山」の号を授かり、江戸時代の最高の古筆鑑定家であった古筆了佐であり、通村の親友の一人であることを知った。古筆は京都の中立売に名筆の書、古筆手鑑やその素材の色紙を商う店を持っており、その店の屋号が「麩屋」であった。従って、小色紙型の「古今の札」の制作を発注するには最適な人物であり、『歓遊桑話』の話も信ぴょう性が増すのである。ただ、残念なことに、『歓遊桑話』は典拠を明らかにしておらず、『中院通村日記』にはこれに該当する記事がない。そのために、どこまでが中院通村の言葉で、どこからが桑林軒の加筆なのかが分からないので、江戸時代初期(1603~52)に「小倉色紙歌合せかるた」と呼ばれていたのか、もしそうだとすればこれが「古今の札」が「歌合せかるた」と呼ばれるようになった最古の例ということになるのだが、それが明確にできない。

なお、ここで、『歓遊桑話』は「小倉色紙歌合せ賀留多」を制作させたという文章なのだからかるたが「色紙形」で成立したと理解した者がいる[4]。色紙形とする結論は私の主張の受け売りであろうけど、説明の仕方は違う。私がしたように制作を命じた相手が「中立売麩屋何某」であったことに注目して、それが色紙商売をしていた古筆了佐だから色紙ではないかと推測するのではなく、「小倉色紙」を「歌合せ賀留多」に制作させたのだから色紙形だというのである。私は最初にこの文章を読んだときにはその意味が理解できなかった。『歓遊桑話』は、「小倉百人一首歌合せ」の別名「小倉色紙歌合せ」という名の歌集の「かるた」を制作させたと語るだけで、かるたの形状については何も語っていないのである。だが、少し考えて分かったのは、この言葉を「小倉色紙歌合せ」+「かるた」と読むのではなくて、「小倉色紙」「歌合せかるた」と読んだのであろうという事情である。こう読めば確かに「色紙」の「かるた」であるからかるたは色紙型と言っていることになる。だが、「小倉色紙歌合せ」を二つに裂いて「小倉色紙」と「歌合せ」にしてしまったのは、おそらく日本文学史上空前絶後の珍事であろう。学術としては全く成立しない誤読である。これをもって発祥期の歌かるたは色紙型であったとするのは論証が強引すぎて、元々は正しい結論も怪し気な証明のせいで台無しになってしまう。

「歌合せかるた」に使われた和歌は、「古今集」「新古今集」「三十六歌仙歌集」「自讃歌集」「千載集」「源氏物語歌集」「伊勢物語歌集」などさまざまであったが徐々に「百人一首」の活用例が多くなり、江戸時代中期(1704~89)には、「百人一首かるた」が優勢になった。こうした和歌の変化を見過ごして、色紙型のかるたでも当初から「百人一首かるた」が主流であったと理解するのも誤りである。中院通村は「小倉色紙」のかるたを発注したが、万人がそれに従ったということではなく、発祥期の歌合せかるたでは、むしろ「古今集」「三十六歌仙歌集」「源氏物語歌集」等が特に好まれていたのである。

 


[1]山口吉郎兵衛『うんすんかるた』リーチ(私家版)、昭和三十六年、一二二頁。なおこれは『百人一首』平凡社、昭和四十九年、一二〇頁では「持明院基時卿色紙形百人一首歌かるた(元禄期)」。

[2]『王朝のあそび いにしえの雅びなせかい』、朝日新聞社、昭和六十三年、一二頁。

[3] 屋名池誠「仮名はなぜ清濁を書き分けなかったか」『藝文研究』第百一巻第一号、慶應義塾大学藝文学会、二千十一年、二二頁。

[4] 吉海直人『百人一首かるたの世界』新典社、平成二十年、四七頁。