『色道大鏡』(写本) (畠山箕山、延宝六年)
『色道大鏡』(写本) (畠山箕山、延宝六年)

江戸時代初期(1603~52)、前期(1652~1704)の遊技法の理解で最も重要視するべき実証的な記録がある。延宝六年(1678)刊の『色道大鏡』[1]である。同書で著者の畠山(藤本)箕山が「巻第七 翫器部」などで取り上げた遊郭での歌合せかるたの遊技、「續松」と「哥がるた」を見てみよう。

「續松」はこのように説明されている。「當時傾國のとるは、貝おほひのごとくに、残らずならべ置て、哥の上の句を一枚づゝ出し、哥に合てとるときは、露松といふ」。いっぽう、「哥がるた」はこう説明されている。「又常のかるたのごとくに、哥のかたを下にかくして、三枚づゝまきならべ、扨(さて)一枚づゝうち出し、哥のあひたる数のおほきかたを勝と定むるを、哥がるたといふ」。

箕山の遊技法の説明は資料としての信頼性が高い。「露松」では、「下の句」のカードを全部並べてから「上の句」のカードを一枚ずつ出して合せ取ると書いている。「下の句」のカードは「並べる」のであって「散らす」のではないので、縦横碁盤の目のように並べる当時の方法であり、同じ「表配りのゲーム」でも、「下の句」のカードを撒き散らして、「上の句」のカードを読んで取る「散し」の遊技法が導入されるよりも前の古い静かな遊技法である。

「つゐまつ」遊技図(『絵本花之宴』宝暦二年)
「つゐまつ」遊技図(『絵本花之宴』宝暦二年)

以前、山口格太郎は、「つゐまつ」という宝暦年間の図像を紹介している[2]。宝暦二年(1752)刊の『絵本花乃宴』である。四名の女性が四角形に坐り、場には下の句札約四十枚が並べられ、中央の空き地に上の句札が積み上げられている。各々の遊技者の膝周りには、上の句札で表面を上に向けたものが何枚か置かれて居るので、場札と山札を合わせ取る遊技法である。頁の上部には文章がある。「つゐまつ 歌(うた)がるたの事(こと)なり 百人一首(ひゃくにんいつしゆ)のほか小町(こまち)花合(はなあはせ)三十六哥仙(かせん)そのたぐひ数(かず)ゝゝつねにもてあそびてそらんじぬべし」である。ここでこの遊技法に熟達するために「常に玩んで諳んじるべき」とされている歌集として、百人一首の外に、小町、花合せ、三十六歌仙が挙げられている。『三十六歌仙』歌集は古くから歌かるたの素材として著名であるが、「小町」は以前に紹介した『小野小町物合歌』である。「花合せ」は上部に和歌、下部に花の絵のある歌合せかるたである。両者とも宝暦年間(1751~64)には著名ではない。フィクションで『源氏物語歌合せ』でも『伊勢物語歌合せ』でもなくこういう古めかしい歌集を持ち出すとは考えにくい。山口はこれにつき「ただし、そのころになっても、あくまで『続松』と気取って、『貝覆』式に取っていた人も、なかにはいたらしい」と説明しているが、私は、露松遊技の古い時代の記録と図像を写したものとみている。いずれにせよ、露松遊技の活写として史料価値が高い。

一方、「哥がるた」という遊技法は分かりにくい。遊技者は自分に配られたカードの中から三枚の「下の句」のカードを裏返しにして自分の前に置き、「上の句」のカードが一枚ずつ出されて、自分の出した三枚のカードのうちに合うものがあれば勝ちになるというのである。遊技者と別に「上の句」のカードを出す係がいて順時に出していくのでは、勝負はすべて札の出てくる順番次第になっておもしろくない。これが、「上の句」のカードも遊技者に配られていて、各々が一枚ずつ出し合うと云うことになると、たとえば六人で遊技するときは一度に六枚の「上の句」のカードが出てくるのであるから「哥のあひたる数のおほきかたを勝とさだむる」という遊技法が生き生きとしてくるのであり、どの和歌のカードが出てくるかを推理して、それに見合った「下の句」のカードを密かに並べて準備しておくという「裏配りのゲーム」らしい戦略、戦術が生じて格段におもしろくなる。

歌かるた遊技図 (『邸内遊楽図屏風』、 制作者不明、 京菓子資料館蔵、江戸時代初期)
歌かるた遊技図 (『邸内遊楽図屏風』、
制作者不明、 京菓子資料館蔵、江戸時代初期)

この「哥がるた」という遊技法については他に参考になる史料が少ない。その中で気になるのは、京都の京菓子資料館蔵の「邸内遊楽図屏風」に描かれている歌かるたの遊技[3]である。遊女が円形に四人坐り、禿が一人見物している。場には十枚程度のカードが散り撒かれ、中央に表面を上にして山札が置かれている。遊女のうち二人は手に一枚のカードを持っており、他の二人は持っていない。後者の膝下には各々二枚のカードが裏返しにして置かれている。これは「續松」ではないので「哥がるた」のように思えるがよく分からない。あるいは未知の遊技法の場面であるのかもしれない。

この遊技法の場合は、百対・二百枚の「百人一首歌合せかるた」では枚数が多すぎて偶然性が大きくなるので、むしろ五十四対・百八枚の「源氏物語歌合せかるた」や三十六対・七十二枚の「三十六歌仙歌合せかるた」の方が緊迫しておもしろい。『色道大鏡』では「續松」は「百人一首」とも「源氏物語」「三十六歌仙」とも特定していないので実際にはどちらであったのか分からないが、いずれであるにせよ、この「哥がるた」という遊技法はせいぜい寛永年間(1624~44)までのもので、延宝年間(1673~81)までに滅んだ。こういうものが記録に残っていたことがありがたい。箕山の目撃証言は実に貴重なものである。

この「露松」と「哥がるた」の消長について箕山はこう述べている「續松 哥がるたの事也。‥‥其もとはおなじ物ながら、とりやうにて名目かはるなり。されども、かるたのごとくにうちあふ事今はたえて、貝おほひのごとくにのみもてあそび來れり」。同じものなのに遊び方によって呼称が変わった。だが今では「哥がるた」の遊技法は絶えてしまい、「露松」の遊技法のみになったので「續松」と呼ばれているということである。「歌貝」や「続松」が「歌かるた」に変身したという故実家の説明とはまるで違って、「歌かるた」の遊技法が今は絶えてもっぱら「露松」になったというのであるからおもしろい。なお、箕山の文章を注意深く読めば、「露松」「哥がるた」「續松」はいずれも遊技法の説明であって、遊技具の名称の説明ではない。江戸時代初期(1603~52)にこの四角い紙製の遊技具がなんと呼ばれたのかは、実は確定的な史料がない。「かるた」「札」「かるた札」など様々な呼称が想定されるが箕山は何も語ってはいない。また、「續松」がいつ「歌留多」になり、それが遊技法の名前から遊技具の名前にまで広がったのかも確定的な史料は見つかっていない。いずれにせよ、箕山の著述の最大の特徴は、自ら全国各地の遊郭に足を運んで遊興して実地で見聞したことを隠すことも飾ることもなく書いている点にあり、この言説も信頼できる。


[1] 野間光辰『完本色道大鏡』、友山文庫、昭和三十六年、一三四、一三七、一三八、二二九頁。

[2] 山口格太郎「源氏歌かるたのできるまで」『円地文子源氏歌かるた』、徳間書店、昭和四十九年、六八頁。

[3] 並木誠士『江戸の遊戯』、青幻舎、平成十九年、四二頁。

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