平成期になると、研究者間のコミュニケーションが前進した。「日本かるた館」の活動が低下した後を継いだのは「かるたをかたる会」であり、平成年間(1989~2019)になると「大牟田市立三池カルタ記念館」「大阪商業大學アミューズメント産業研究所」「麻雀博物館」などが設立されて情報交換の拠点となり、「遊戯史学会」「日本人形玩具学会」「ことわざ研究会(後にことわざ学会)」などによって研究の水準が向上した。こうした学会、研究会が開催する研究大会や「三池カルタ記念館」、京都市の「国際日本文化研究センター」などで開催されるシンポジウム[1]なども研究者交流の良い機会となった。また、「ギャラリー花札」「江戸カルタ研究室」のようなカルタ研究のサイトも立ちあがった。こうした一連の活動の活発化にともない関連する資料、データの公開と共有は進展したが、研究面では旧来の不完全な理解がそのまま通用しているものが多く、新書、文庫などでの一般向けの解説書の類やインターネット上などには学術的な根拠の乏しい無責任な言動が溢れていて目立つ。新しい問題関心、新しい視座からの既出の史料の再検討、新出の史料の解読はなお今後の課題の儘に残されている。今回も、重要な史料について、既出、新出のいずれについても自分でもう一度読み直してから丁寧に説明することに意を尽くしたが、こうした研究と執筆の姿勢が現在の壁を突破する端緒となることを期待する。

なお、この時期に、私を激しく批判する人間が二人出た。この件は、私自身にかかわることなのでいささか書きにくいが、かるた史の研究史上では無視できない出来事なので簡単に触れておこう。

一人は同志社女子大学教授の吉海直人である。吉海は、平成十六年(2004)の同大学の紀要に「『花かるた』の始原と現在」[2]という文章を発表して、自分が自己のコレクションを基にして花札の起原を解明したことと、私がいかに誤っているのかを力説した。しかしそれは、ほとんど有効な史料を提示できていない、歴史論文とは呼べない雑な文章であって、史料の怪しげな操作もあり、吉海の歴史研究者としての倫理と資質を疑わせるだけの結果に終わった。私はこの文書に対して全面的な批判を加え[3]、吉海は人づてに誤りを認め、花札史の世界から撤退した。だが、その後も、吉海は歌合せかるたの領域などで史実に合わない奇妙な説明を繰り返し、その際に史実を提示する私への批判を繰り返している。

もう一人は福井県の山口泰彦で、同地に「天正カルタ」系の「小松」で遊ぶグループがなお存在することを発見し、平成十年(1998)に『最後の読みカルタ』でそれを公表するとともにこの「小松」に関する私の理解がいかに誤っていることを力説した[4]。そしてさらに、山口は、私が大牟田市立三池カルタ館に関わって行ったこと、とくに「三池カルタ」の復元がいかに自分勝手で周囲に迷惑をかけたのかを復元の関係者である「松井天狗堂」に代わって怒って見せた。私は、全国各地に残存するはずの古いカルタ遊技を発掘したいと以前から念願しており、青森県の「黒札」、愛媛県の「九十六」の遊技法を発見することができた。だから、山口が「小松」の遊技を発見したこととそれの保存、維持に努力を傾けていることは高く評価しているが、それ以外の点ではとくに検討したり、評価したりするには値しないと思っている。「松井天狗堂」も事実に反すると山口に抗議したのだろうか、『最後の読みカルタ』の後版では、いつの間にか私へのこの非難のページはすっぽりと削除されている。ただ、当人である私へのあいさつも弁解もないので、それがいつどういう理由で起きた削除なのかは知らない。


[1] 国際日本文化研究センター「シンポジウム『百人一首の世界』」平成十五年。前引第三章注34『百人一首万華鏡』思文閣出版、平成十七年。

[2] 吉海直人「『花かるた』の始原と現在」『同志社女子大学日本語日本文学』十六号、平成十六年、三七頁。

[3] 江橋崇「吉海直人教授の始原と現在―論文「『花かるた』の始原と現在」への疑問」『遊戯史研究』十六号、平成十六年、二六頁。

[4] 山口泰彦『最後の読みカルタ』私家版、平成十年。

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