トゥーンベリ
トゥーンベリ
(Caroli Petri Thvnberg)

日本のカルタについてある程度まとまって言及した最初のヨーロッパ人は、長崎の出島の医師として採用されて来日したスウェーデン人、カール・ペーテル・トゥーンベリ(旧来の表記ではツンベルク)である。トゥーンベリは、安永四年(1775)に日本に到着し、安永五年(1776)に十代将軍徳川家治に謁見するために江戸に向かったオランダ使節に随行して見聞を深めるとともに、旅の途中や江戸で日本人の蘭学者、医師らと交流し、同年の年末に日本を離れた。この短い滞在期間にトゥーンベリが行った日本の植物に関する調査、研究は大きな成果を挙げて、ヨーロッパに日本の植生を紹介するパイオニアになるとともに、日本の植物学にも大きな影響を与えた。だから今日では、トゥーンベリは日本の生物学の先達として有名である。

トゥーンベリは、スウェーデンへの帰国後に、アフリカ、アジアを歴訪して日本に至った旅行の日記をスウェーデン語で出版した[1]。この東洋の神秘の国に関する旅行記録は大きな反響を呼び、フランス語訳、英語訳、ドイツ語訳が出版された。そしてその中で、フランスで日本に関する部分を別途に編集したのが『トゥーンベリの日本への旅行』[2]というフランス語の書物である。これが、日本語に翻訳されて、昭和三年(1928)に『異国叢書』の中の一冊として『ツンベルグ日本紀行』[3]と題して公刊された。今日、『ツンベルグ日本紀行』で検索すると原著者がツンベルグ(トゥーンベリ)と表示されるが、正しくは、これはパリ国立図書館東洋文書係のラングレ(L. Langles) が原著者である長文の題名の要約本の日本語への翻訳書であり、ラングレによる編集を経ているものであってトゥーンベリの元来の日記の完全なフランス語訳本ということではない。

この日本語翻訳書三六〇頁に、トゥーンベリが日本のカルタに触れている個所がある。それは、安永五年(1776)春に江戸に向けて長崎を出発した後に、山口県下関で船に乗り、近くの上関の港で風待ちのために数日停泊していた時のでき事である。山田珠樹の訳文のままに紹介しよう。

日本人はカルタ遊は余り好きでない。それにこれは政府から厳禁されてゐるのである。時に船中でカルタ遊をすることもあるが、陸では決してしない。 日本人のカルタは縦二プース横一プースある。紙製で一面は黒く、一面にはごたごたした色が塗ってある。カルタの数は五十枚で、これを数組の山に分け、この上に銭をのせる。遊ぶ人は一人一人カルタを一枚抜いて、これを裏返しにして、一番美しい模様のものが勝つのである。 この賭博は見らるゝ如くかなり欧羅巴のプチ・パケ(petits paquets)に似ている。

トゥーンベリのこの記述は当時の外国人によるカルタ賭博のとても貴重な目撃証言であるが、普通は、日本人はオランダ人医師の面前でカルタ賭博などしないのであり、これは、たまたま船旅のように閉鎖的な空間で日本人と共に過ごして、風待ちで港に長時間滞在し、無聊のうちに時間を共有したという例外的な経験から得られた知識であったと思われる。トゥーンベリがこのカルタ賭博に参加したとは思えないが、それを見物し、あるいはカードに触っているのではなかろうかと思われる。

トゥーンベリの記述は三点に及んでいる。第一は日本におけるカルタ遊技の状況の説明であり、「日本人はカルタ遊は余り好きでない。それにこれは政府から厳禁されてゐるのである。時に船中でカルタ遊をすることもあるが、陸では決してしない」とされている。第二はカルタ遊技に使うカードの説明で、「日本人のカルタは縦二プース横一プースある。紙製で一面は黒く、一面にはごたごたした色が塗ってある。カルタの数は五十枚」である。第三はカルタ遊技の遊技法であり、「これを数組の山に分け、この上に銭をのせる。遊ぶ人は一人一人カルタを一枚抜いて、これを裏返しにして、一番美しい模様のものが勝つのである。この賭博は見らるゝ如くかなり欧羅巴のプチ・パケに似ている」である。

第一の部分の指摘は明らかに史実に反する。日本で、陸上ではカルタ遊技が厳禁される一方で海上では許容されていたということはないし、日本人がカルタ遊技を「陸では決してしない」ということもない。だが実は、この部分はトゥーンベリの記述ではない。トゥーンベリは、上関港での風待ちの船中での出来事を書いているのであって、このように日本のカルタ賭博事情についての一般論を書いているのではない。ところが、日本語への翻訳書の基になったフランス語版の書籍は、トゥーンベリの日記を項目別に再編成して出版したものであり、編者ラングレのまとめ方によって元来の内容からはずれている部分がある。船の中ではカルタ遊びをするが陸ではしないというのはトゥーンベリが乗船している船の水夫たちが当時こうだったということなのであって、それ以上でもそれ以下でもない。フランス語版のようにこれを妙に一般化して、日本人が一般に船の中でしかカルタ賭博をしないと説明してしまっては行き過ぎで誤解を生む。この部分の日本語訳は、スウェーデン語の著書からフランス語の要約本への翻訳における誤解をそのまま日本語に訳した結果であり、確かに誤訳なのだが、その責任は日本語への翻訳者にはない。

第二のカルタが一組五十枚という指摘はほぼ正確である。大きさは「縦二プース、横一プース」という指摘も、「縦二インチ、横一インチ」で、古い賭博用のカルタはだいたい縦横の比率が二対一であることから観察が正確であることを示している。だがカルタは「紙製で一面は黒く、一面にはごたごたした色が塗ってある」という指摘は奇妙である。これはカルタの紋標(英語ではスーツ・マーク)をフランス語でル・クルール(les couleurs)というところ、ラングレがそれは「色」を示すと誤解して雑色(bigarrures)という語を用いたためで、それをさらに日本語訳で「ごたごたした色」と不適切に訳したのでさっぱり意味が通じなくなったのである。ここは、「紙製で裏面は黒く、表面にはそれぞれに異なった紋標がついている」と書かれるべきであった。このように重訳で生じている誤訳を正してみると、この記述からもトゥーンベリは当時の日本でのカルタの特徴をよく伝えていることが分かる。この部分の誤訳もフランス語版の日本語訳の過程での事故である。

第三のカルタの遊技法に関する記述であるが、「これを数組の山に分け、この上に銭をのせる」という記述は遊技法を大別すればかぶカルタ系のものを示している。かぶカルタ系の遊技では、カードを配る役割の「親」が一枚ないし二枚のカードを「子」たちの前に次々と配布するところから勝負が始まるので「数組の山に分け」るという印象になるのであろう。また、参加者が金銭を賭ける場合は、賭金はカードの上には載せないで、その前ないし横の空間に置く。だが、この程度の訳の違いは大した問題ではない。次の「遊ぶ人は一人一人カルタを一枚抜いて、これを裏返しにして、一番美しい模様のものが勝つのである」は、日本語訳として不正確で、「遊技の参加者は各々がカードを一枚引いて、表を上にする、そして一番美しい模様のものが勝つ」であろう。これは遊技の中心の「親」が手元に残ったカードの山の中から「子」の遊技者に一枚ずつ表を上にして追加のカードを配る所作を意味するのか、ゲームの最後に親が自分のために一枚のカードを表を上にしてその場にさらす所作を意味するのか、いずれにも解釈可能な文章である。カルタ賭博の遊技法は細かい所作では遊技者の集団ごとに千差万別であるので、短文の説明はよく分らないが誤訳とまでは言い切れない。また「一番美しい模様のものが勝つ」(la plus belle a gagné)はエースのような特定のカードが勝つというのか、最初に配布されていたカードとの組み合わせで一番見事なものが勝つと意味するのか分からないので、きちんとした正誤の判断がしかねる。普通、かぶカルタ系の遊技では「親」と「子」たちの参加者の中から一人が勝者になるのではなく、「親」と「子」の一人ひとりとの間での勝ち負けになるのであって、「一番美しい模様のものが勝つ」というのはかぶカルタ系ではなくトリック・テイキング・ゲーム系の遊技法の描写のようで、この点でも理解が難しい。

トゥーンベリは、こうした日本のカルタの遊技法が、「この賭博は見らるゝ如くかなり欧羅巴のプチ・パケに似ている」と言っている。このプチ・パケという遊技法は知られていない。そしてこれはフランス語版でラングレが「ヨーロッパのプチ・パケ」ではなく「我々の(nos)プチ・パケ」と言っているように、ヨーロッパ全体で著名な遊技法ではなく、フランスのローカルな遊技法であり、トゥーンベリのスウェーデン語の原文ではSala bybikaという名前のスウェーデンの遊技法である。この遊技法は知らない。これとプチ・パケ(Petits Paquets)という遊技法との関連も知らない。

以上がトゥーンベリによる日本のカルタの紹介である。とても短いが、要点は始めて見る未知の遊技文化をきちんと紹介できていると思う。なお、同書の巻末にはスウェーデン語・日本語辞書が添付されているが、日本語の翻訳書では削除されている。そこには「カード」は「Semek-u, niskaka」という理解できない日本語になっているが、「カードで遊ぶ」というスウェーデン語に対応する日本語として、「Karta utsu, bakkutsu, bakkutjiutsu」とあるので理解できる。この日本語は「カルタ打つ、博奕、博奕打つ」であろう。カルタの遊技では、賭博系のカルタ遊技の場合は「打つ」で、百人一首かるたやいろはかるたの場合は「取る」であるから、トゥーンベリの理解は適切である。カルタと博奕が同一視されているが、すぐ後で骰子で遊ぶ人を「Bakutsi utsi」(博奕打ち)としていて、「バクチ」という語はトゥーンベリにとっては多義である。

なお、山田珠樹による翻訳書『ツンベルグ日本紀行』にはもう一つ日本語の翻訳本に固有の問題のある記載がある。このカルタに関する記述は第二十一章「日本人の祭、娯楽及遊戯」にあるのだが、その目次には、該当部分について、「花札(三六〇)」(三六〇は翻訳書のページ数)と書かれている。これがトゥーンベリの原著にある言葉に忠実で、彼が花札について言及したとなると大事件である。江戸時代中期(1704~89)後半の日本で花札を使ってかぶカルタ系の遊技が行われていて、それを見知った外国人がいたとなれば、これはとても古い目撃証言であり、日本の年号でいえば安永年間(1772~1781)に花札がそれほどに普及していたということになる。花札は江戸時代前期(1652~1704)の終わりころに上流社会の人々のために考案されて、中期に広まったという私が唱える理解にとっては、この時期にすでに花札があったという点では貴重な論拠になるが、それが賭博、それも船中での男性の水夫が行う賭博に使われていたとすれば私の理解を超えている。そこで、山田による翻訳の原著であるフランス語の文献、さらには山田が参考にしたという英語版の文献、そして、山田が読めないとして参照しないままに放置したトゥーンベリのスウェーデン語の原著まで調べたが、このような目次は存在しない。つまりこれは、翻訳者の山田が日本語版に自分で付け加えたものであり、原著にない目次が日本語版に現れたという奇怪な現象である。しかもその際に、山田は、賭博系のカルタといえば花札しか念頭に浮かばなかったようで、日本の賭博系カルタは花札しか存在しなかったのだからトゥーンベリがカルタと書いたのは花札のことだと即断して、カルタと書けば百人一首かるたやいろはかるたと誤解されるとでも思ったのであろうか、カルタを花札としてしまったものだったのである。架空の目次を創作したこと、カルタを花札としたことと、二重に迷惑な話である。

〈トゥーンベリの「合せカルタ」の発見〉

トゥーンベリの「合せカルタ」
トゥーンベリの「合せカルタ」
(スウェーデン国立世界文化博物館HPより)

令和二年(2020)になって、トゥーンベリ関連で、研究上の大きな進展があった。私は、トゥーンベリの書いたものを紹介しながら、このスウェーデン人の医師・植物学研究者が日本の賭博遊技カルタを観察してヨーロッパに紹介した最初の人間であると指摘してきた。この指摘は今日でも全く揺るぎがない。ただ、トゥーンベリはその旅行記の中でたまたま見かけた船乗りのカルタ遊技に触れたものであり、記述は詳細で正確であるが、カルタ札そのものを持ち帰ったとは記述していなかった。だから、日本の賭博遊技カルタのカルタ札そのものをヨーロッパに持ち帰って紹介した最初の人は、トゥーンベリより半世紀後の、オランダ人で長崎出島商館長であったブロンホフであると考えられてきた。

ところが、令和二年(2020)に判明したのは、ブロンホフによる賭博遊技カルタの伝来よりも約五十年も早い安永年間(1772~81)に、外ならぬトゥーンベリその人が、日本のカルタ札を持ち帰っており、それがスウェーデン国内の博物館に保存されている という驚くべき事実であった。それも、研究者らしく、未使用のフルセットをサンプルとして持ち帰っていた。これまでの賭博遊技カルタの研究史では、文献史料は江戸時代中期(1704~89)のものが大量にあるのに、この時期の物品史料は姿を消しており、早くても江戸時代後期(1789~1854)のものしか活用できなかったのに、ここに江戸時代中期(1704~89)のカルタ札という貴重な物品史料が登場したことになる。こうした大発見を知る機会に恵まれるのは、賭博遊技カルタの歴史研究では信じがたいほどに幸運なできごとであり、発見者には感謝し、強く賞賛したいと思う。

この大発見を行ったのは、国際的に優れた花札史の研究者で、日本かるた文化館の事業にも理解があり協力的な、マルクス・リケルト(Marcus Richert)である。この功績により、リケルトという研究者の名前は、現存最古の賭博遊技カルタの発見者として、日本の賭博遊技カルタ研究史に、しっかりと刻み込まれることになる。私としては心から祝福したい。

さて、それならば、このカルタは何物なのであろうか。現時点では、博物館が提供しているデータと画像しか利用できないが、それを見て私が思うところを記述してみたい。

まず気になるのは、カルタ札の大きさである。日本の賭博遊技用のカルタは、ヨーロッパ人に、自国のカルタの縦横ともに二分の一程度の小さなものと表記されているが、このトゥーンベリのカルタは、博物館の計測によれば縦六・二センチ、横三・五センチである。この縦横比率は古い時期のものであり、江戸時代後期のブロンホフのカルタやシーボルトのカルタがおおむね一・七倍程度であるのに対して、一・八倍に近い、見た目が細長い印象が残る。カルタ札そのものではないが、江戸時代中期(1704~89)の『雨中徒然草』に掲載されている挿画の「よみカルタ」も細長く、今回発見されたものの縦横比にも近い。

次に、各々のカルタ札の図像であるが、まず注目されるのは「オウルの六」の札である。江戸時代中期(1704~89)の前半期から上方で流行した「合せ(テンショ)カルタ」のカルタ札では、この札には特別の価値が認められており、その証として、銀彩が加えられていた。ところが、これが江戸に入って変化して「めくりカルタ」のカルタ札になると、今度は「ハウ(青)の六」が特別に高点の札とされ、それに銀彩が施されるようになり、それと入れ替わりのように、「オウルの六」は単なるカス札に戻り、銀彩が外されるようになった。そして、このトゥーンベリのカルタ札では、「オウルの六」に銀彩はないので「めくりカルタ」ではない。。私の第一印象では、これは上方の「合せ(テンショ)カルタ」である。なお、博物館は、慎重に、これを「日本のカルタ」と呼ぶだけで、「めくりカルタ」とも「合せカルタ」とも呼んでいない。

次に、このカルタで銀彩を施した役札を見ると、「ハウの一」「ハウの二」「ハウのソウタ」「ハウのウマ」「ハウのキリ」である。江戸時代後期(1789~1854)の「合せカルタ」では、この他に「オウルの二」にも銀彩を施すのが標準化しているが、トゥーンベリのカルタにはそれがない。その分だけこのカルタ札が古いということであろう。そして、これらの札の銀彩の中では「ハウの二」のそれが注目される。これは、こん棒に巻き付く龍の姿をしている。同様の例は、江戸時代中期(1704~89)の『雨中徒然草』にあり、また、幕末期(1854~67)の京都、湊屋製の「合せカルタ」札にも残っているが、「めくりカルタ」にはない図柄であり、いかにも「合せカルタ」らしい。

次に、このカルタの図像を見ると、いくつかの特徴がある。まず、紋標「ハウ」がカッパ摺りで紺色の太い線であらわされている。手描きの細い紺色の線で表していた古い時期のカルタ札とは異なり、カッパ摺り(ステンシル)が用いられるようになった時期以降のものと判断される。また、「オウルの三」の札を見ると、三つの紋標「オウル」が画面の左上から右下に流れている。江戸時代後期(1789~1854)の「合せカルタ」や「めくりカルタ」では右上から左下に流れる図柄のものが多いので、このカルタは例外的である。また、明治時代(1868~1912)以降にまで生き残った、いわゆる地方札をみても、左下に流れる図柄のものが多く、トゥーンベリのカルタと同じ向きであるのは、「金極」や「小松」、あるいは京都の鶴屋のカルタ札の図柄に似せた「黒札」などに散見される程度である。

また、トゥーンベリのカルタでは、紋標「オウル」の外縁部分にギザギザの模様がある。この点も「金極」や「黒札」と通じる。この他に、「コップの二」の札の紋標の上部に漢字の山に似た線があるが、これは紋標がもともとは「聖杯」の「コップ」であったものが上下逆転して「巾着」になり、以前の「聖杯」の脚部が「巾着」の上部に変形した後も、「合せカルタ」や「めくりカルタ」では「聖杯」当時の脚部の描線が残ったことを意味している。この他、「ハウの六」から「ハウの九」の中央にある手描きの赤色の菱形、あるいは「イスの六」から「イスの九」にかけて札の中央にある手描きの青色の菱形も「めくりカルタ」に継承されている。要するに、トゥーンベリのカルタの図像は、その後「めくりカルタ」に引き継がれて、いくつかの地方札に残ったということである。上方の「合せカルタ」が江戸で「めくりカルタ」に転じたのだから当たり前のことであるが。

トゥーンベリのカルタの絵札は、後の「めくりカルタ」の図像とよく似ている。いつの時代も同じ、手慣れた作業手順に従ってさらさらと色を入れていく職人の作業姿が想像される。ただ、このカルタでは手描きの描線がまだ細く、全体としてすっきりしていて「粋」であり、江戸好みの「めくりカルタ」のようにベタっと塗りまくったという印象は少ない。とくに紋標「ハウ」の「一」つまり「アザピン」の図像は、他の三種類の紋標の「一」と同じように細い線で「龍」の図像の原形をとどめて描かれており、後世の「めくりカルタ」のように紺色で塗りつぶしたベッタリとした飽満感はない。

一方、トゥーンベリのカルタでの文字情報であるが、「イスの二」の札には、中央上部に「根本」、中央下部に「笹極」、中央左右に「無類」とある。これに近いのは地方札の「金極」であり、そこでは、中央上部に「根元」、中央下部に「金極」、中央左右に「藤原」とある。「根本」と「根元」、「笹極」と「金極」と微妙に似ている。また、「無類」は、九州南部の地方札「小天正」や「小獅子」に同様の表記があるが、「金極」の「藤原」(「藤原屋」?)とは相当に違う。また、「笹極」は、「オウルの三」の札に、右上部に「むるい」、左下部に「ささしまや」とあり、「むるい」はもちろん「無類」であり、「ささしまや」は「笹島(又は笹嶋)屋」であろうから、「イスの二」の「笹極」は、元祖の「笹島屋」が「極めた」という自己主張であろう。なお、この「笹極」は、「ハウの六」から「ハウの九」の中央にある赤色の菱形では「笹」、あるいは「イスの六」から「イスの九」にかけて札の中央にある青色の菱形では「極」と使われている。この部分は、元来は文字がなかったのであるが、「めくりカルタ」では屋号を入れることがあり、また端的に「六」「七」「八」「九」のように類似する札と識別する数字が入ることもあった。このほか、「コップの六」では中央に左から「笹」「極」とある。「コップの六」の札は、「オウルの四」の札とともに、カルタの制作者名を表示する札であるので、通常の例からすると「オウルの四」にも同様の表記があると思われるが、残念ながらトゥーンベリのカルタではこの札が欠けているので確認できない。

このように、詳細に検討を進めると、このカルタの正体が浮かび上がってくる。これはどうやら上方、それも京都で作られた賭博遊技カルタであり、上方で流行していた「合せカルタ」であろうと判定されるのである。図柄の継承という点から見れば、京都で「金極」を制作していたカルタ屋のカルタ札に近い。「松葉屋」や「布袋屋」のカルタ札とは距離がある。

そうすると、トゥーンベリはこれをどこで購入したのかという問題が浮上してくる。確たる証拠はないが、私は、将軍の謁見に陪席するために向かった江戸での購入物ではなく、また、旅の途中で立ち寄った大坂よりも、長期間滞在していた長崎で入手したのであろうと考えている。この点は、スウェーデンで何らかの記録が発見されることを期待したい。

以上が、今回の大発見に対する私の史料批判である。これによって、従来の理解が根底から崩壊するような衝撃は発生しないし、従来、私が述べてきたことも訂正する必要も生じていないことにホッとしているが、江戸時代中期の賭博遊技カルタが初めてその姿を見せた衝撃はやはりとても大きい。これからは、このカルタ札に触れずして江戸時代のかるた文化を語ることは不遜である。こうして、新しい研究のステージの扉を開く作業の一端を担わせていただけることに感謝している。


[1] Caroli Petri Thvnberg, ”Resa vti Europa, Africa, Asia föraettad ären 1770-1779” Upsala, J. Edman 1788-1793 

[2] Voyages de C.P. Thunberg, au Japon, par le cap de Bonne-Espérance, les îles de la Sonde, &c. : traduits, rédigés et augmentés de notes considérables sur la religion, le gouvernement, le commerce, l’industrie et les langues de ces différentes contrées, particulièrement sur le Javan et le Malai / par L. Langles ... ; et revus, quant à la partie d’histoire naturelle par J. B. Lamarck.

[3] ラングレ編、山田珠樹訳註『異国叢書ツンベルグ日本紀行』、駿南社、昭和三年。

[4]  http://collections.smvk.se/carlotta-em/web/object/1000639

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