ブロンホフ

ブロンホフ
(Jan Cock Blomhoff)

日本のカルタについての次の紹介は、1816年にイギリス、ロンドンで発行されたサミュエル・ウェラー・シンガー(Samuel Weller Singer)のカード史の著作『カルタの歴史の研究』[1]に寄せた、長崎のオランダ商館の商館員、ヤン・コック・ブロンホフ(Jan Cock Blomhoff)の1815年の報告である。シンガーの著作はカード史研究の歴史に残る名著であるが、当時の日本は鎖国であり、日本のカルタに関する情報は皆無といってよい状態であったが、そこでまとまった報告ができたのは、ブロンホフというオランダ人が長崎出島のオランダ商館の商館員として長期間日本に滞在していて事情に明るかったからである。

ブロンホフは、オランダ商館の荷倉役を勤めていたが、ナポレオン戦争の時期に、当時の商館長ヘンドリック・ドゥーフの『日本回想録』[2]が詳細に明らかにしているある事情で敵国のイギリスと交渉する必要があってバタビアに赴いたところで捕虜とされて、イギリス本国に移送された。幸い、ナポレオン戦争が終了したので直ちに釈放されて母国オランダに帰国することができたが、その当時に知り合ったのであろうクルデン(R.P.Cruden)という人物がシンガーの調査協力者であった。ブロンホフは母国オランダに帰還して、母国がフランスに占領された苦難の期間にも世界中でただ一か所日本の長崎港出島に母国オランダの国旗を掲げ続け、逆にここを襲撃してきたイギリス海軍の軍艦にも対抗して追い返した英雄として熱狂的に歓迎されたが、その後滞在していたドルトレヒト市で、クルデンから手紙で日本のカルタについて問い合わせを受けて回答した。

シンガーの著書にあるブロンホフの報告は次のような内容の英文である。

 

付録十五 R・P・クルデン氏の通信

クルデン氏は、長年日本に居住していたあるオランダ人に対してカードに関する調査の質問を行ない、親切にも私がその回答を拝見する機会を与えてくださった。以下はその内容である。

ドルトレヒトにて 一八一五年八月一五日

拝啓

日本のカード、その使用法などに関する情報をご請求なされた七月二六日付けのお手紙に謹んでお答えいたします。日本人の使用しているカードは、日本国内で製造されたものでございます。ただ、私は一組のカルタを構成するカードの枚数を知りませんし、また、二種類以上のカルタが存在するか否かも知りません。私の見るところでは、日本にはカルタの文献は存在しないようです。というのも、賭けごと、より特定して言えばカルタ遊びは、たいへんに厳しい刑罰の苦痛によって禁止されているからであります。

日本のカルタは、そのサイズではなくカルタのマークで中国のカルタと異なります。私の見たカルタには数を示す形象、肖像画像及び紋章が描かれており、それらは彩色されたうえ金銀で飾られています。それらは数を示す文字と同様によく描かれています。カードは、イギリスのカードの四分の一よりもやや大きいくらいで、形は同じようなものですがやや厚めに仕立てられております。

ゲームには、二人またはそれ以上が参加し、各人は六枚、八枚又はそれ以上のカードを持ち、それ以外は卓上に残され、うち四枚が表に返されます。遊技では、この四枚の表に返されたもののいずれかと同じカードが手から出され、この二枚は取り去られ、その巡(トリック)に獲得したカードとして、カードを出した者の前に置かれます。ついで、持ち去られたものの代わりとして、別の一枚のカードが新たに表に返されます。もしそれが直近に出されたカードと同じ種類のものであればこれもまたそのトリックに獲得したカードに加えられます。遊技中には最高の札がより低位の札に優先して投じられます。各々の遊技者は最初の者の例にならい順番に遊技を行ない、また最初の者の順番になります。このようにして、遊技はすべてのカードが使われるまで続き、各人が自分の巡で得たカードが計算されるときには、誰であれ、一種類のカードを多く集めるだけいっそう有利であるように思われます。ゲームの勝者は、事前に定められた一〇〇点ないしそれ以上の得点に最初に達した者ですが、私はどのようにしてこの得点計算をするのか知らないことを申し上げておきます。というのも、私は日本を出発する際に私のすべての書類を残してきており、その中には私のノートも含まれるからであります。

敬具

グルデン閣下             ヤン・コック・ブロンホフ

この手紙の内容は大きく三点に別れる。第一は、回答者としてのブロンホフ自身の限界の説明であり、知識の不足、文献の欠如、そして意に反する急遽の帰国であったので日本に関する資料やノートを長崎に残してきたことが書かれている。ブロンホフは日本での滞在期間中はもっぱら長崎の出島に居住していたので、その見分は長崎市内に限られていた。カルタに関する知識もこの地で得られたものである。

 

第二は、カルタのカードの説明である。手元にカードそのものがないので記憶だけが根拠の話になるが、大きさはイギリスのカードの四分の一よりやや大きめであるとしている。これは縦横ともにイギリスのカードの二分の一で、したがってイギリスのカード一枚のカードの面積が四枚分になるという意味である。大体の大きさの比較としては正しい。そして、カードの上には、数を示す形象、肖像画像及び紋章があり、それらは着色された上に金銀で飾られていて、さらに数を示す文字も同様によく描かれているという。数を示す形象、肖像画像が各々数札の模様、絵札の模様を示すことは分かるが、そのほかに紋章というとどのカードの図像が紋章に見えたのかは特定できない。金銀彩が加えられているというのはその通りであるが、さらに数を示す文字があるといわれると、これは理解が難しく、一部のカードに加えられた金銀彩に文字や漢数字が描かれていることを意味するのか、それともこれと別に、今日では消滅して分らなくなっているが漢数字が記載されていたのか、あるいはブロンホフにカード上に数を示す漢字を書く中国のカルタと混同する何らかの記憶違いがあったのかは分らない。

 

第三は、カルタの遊技法の説明である。これは全体的には西日本でいう「合せ」あるいは「テンショウ」、江戸では「めくり」と呼ばれていた遊技法である。

 

参加者が二人かそれ以上、通常は三人ないし四人が多かった。参加者に配られる手札は一人六枚ないし八枚で、表面を曝す場札が四枚、したがって残りの裏面を上にして場に積まれる山札は三人の場合は二十六枚ないし二十枚、四人の場合は二十枚ということになる。だが、これだと手札と山札の数が食い違い、山札が多すぎて手札が尽きたら山札が残っていても遊技終了にするか、逆に山札が少なすぎてそれが尽きたら残りの手札は放棄したカードの扱いにするか、いずれにせよ不便であり、そこで通常は手札が七枚ずつになり、場札が六枚、山札が二十一枚になる。これだと三人だと手札の合計が二十一枚であり、一枚が場に投じられる度に山札を一枚曝すと、一人七回、合計二十一回でぴたりと合う。「六枚」はありうるが、「八枚またはそれ以上」というのはブロンホフの記憶違いではないかと思う。

 

遊技開始後は、自分の順番の時に多くのカードを獲得するように工夫して争い、最後まで打ち切って各人が獲得したカードの点数を計算する。ブロンホフの説明は一部おかしな点もあるが大筋は当時の遊技法に合っている。ただ、終了後の点数計算についてはブロンホフ自身が認めているように分かっていないようである。とくに、特定のカードのグループを集め切ると高点になることが書かれていない。「一種類のカードを多く集めるだけいっそう有利であるように思われます」という記述はこのことを表現しているのであろうと思えるがあいまいでよく分からない。したがって、遊技の開始時から高点のカード、カス札と呼ばれる低点のカードがあることも触れられていない。

 

ただし、遊技全体の勝敗の判断基準については明確で、「ゲームの勝者は、事前に定められた一〇〇点ないしそれ以上の得点に最初に達した者です」とある。「合せ」「めくり」系のカルタ遊技では、事前にゴールとなる点数を定めておいて、毎回の遊技の勝者に価値の大きさに沿った得点が与えられ、各人がそれを貯めてゆき、最初にゴールの点数に達した者が出たらその者を勝者として遊技を終了する。通常は、このゴールとなる点数は一度のゲームでは到達できない大きさに設定されていて、何回かゲームを繰り返して持ち点を貯めていくことになる。当然、連勝して大差がつくこともあるし、逆転が生じてスリリングな展開になることもある。勝敗の決定の仕方には、このほかに、毎回の遊技ごとに銭のやり取りをして精算し、所定の回数(番)を行ったら終了とする方法や、スポーツの試合のように所定の回数(番)を終えた時点で最も獲得点数の多い者を勝者とする方法もあったが、ブロンホフが見たのはこれらの方法ではない。

 

以上がブロンホフの紹介した日本のカルタのカード及びその使用法の説明である。日本を離れてから長い時間が経過しており、空間の移動も大きくあり、その間に運命が激変する出来事が多かったというのに、ブロンホフの記憶は正確で驚かされる。手元にカルタのカードも、自分のノートやその他の史料も全くないのによくここまで記述できたと感心する。ただ、こうしてブロンホフによってグルデン経由でシンガーに提供された情報は西日本の「合せカルタ」に関するもので、ブロンホフがみずから述べているように、その他の種類のカルタ類、賭博系でいえば「読みカルタ」や「かぶカルタ」、日本式のかるたでは「百人一首」などの「歌合せかるた」、「ことば遊びかるた」「芝居遊びかるた」「いろは譬えかるた」などの「絵合せかるた」などに関する情報は提供されていない。花札についてもなにも言及されていない。

 

いずれにしても、これがヨーロッパ社会に向けて日本にカルタの遊技があることを明確に説明した最初の文献史料である。だが、シンガーはこの通信の内容に半信半疑であったのか、世界のカルタ遊技文化の中に位置づけることをせず、Appendix(付録)として孤立した情報提供にとどめている。

 


[1] Samuel Weller Singer, “Researches into the History of Playing Cards, with illustrations of the origin of printing and engraving on wood”, London, 1816.

[2] ドゥーフ著、永積洋子訳『ドゥーフ 日本回想録』、雄松堂出版、平成十五年。

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