ゴローニン
ゴローニン
(Vasilii Mikhailovich Golovnin)

ヴァシリー・ミハイロヴィチ・ゴローニン(Vasilii Mikhailovich Golovnin)はロシアの軍艦ディアナ号の艦長であり、1811年に千島諸島の測量任務中に国後島で松前藩士に捕まり抑留された。翌1812年に脱走を試みたが失敗し、松前の牢獄に入れられた。ゴローニンは後に釈放されて帰国し、この期間の経験を基に1816年にロシアで『日本幽囚記』[1]を出版した。同書には、入牢期間中の観察として松前の牢獄の番卒が「初めのうちこそ厳重に役目を果たしていたが、そのうち夜間は眠っていたり、奥の詰所で本を読んだり、あるいはカルタや将棋を指したりしていた。」と書いており、カルタの記述に注記で次の文章が加えられている。

なお、ゴローニンは、昭和前期(1926~45)まではゴロウニンという表記が有力であり、現在はゴローニンのほかにゴローウニンと表記することもある。

日本人の間ではカルタと将棋の遊びは非常に盛んである。彼らは金銭を賭けて遊ぶのが好きで、時には負けて素っ裸になることさえある。日本にカルタを持ち込んだのはオランダ人船員たちである。昔は、長崎に来たオランダ人は居酒屋や娼家に遊びに行って、自由に日本人と交わることができたからである。日本ではカルタはヨーロッパの名称のまま通用し、五十二枚からなっていた。しかしカルタ遊びから喧嘩や殺人事件などが起こったため禁止された。そこで日本人は法をくぐって四十八枚のカルタを考え出した。それは、我われのカルタの四分の一くらいの大きさで、全国に流通している。

ゴローニンの捕縛
ゴローニンの捕縛

ゴローニンがここで述べていることは三点である。第一に、かるたは長崎でオランダ人から伝来したとされている。第二に、日本のカルタは当初は五十二枚一組であったが、不祥事があって禁止されて、それに代えて四十八枚一組のカルタが考案されたとされている。第三はカードの大きさで、ロシアのカードの四分の一と紹介されている。

ゴローニンがいつどこでこうした情報を得たのかは不明である。文章には長崎に関する部分があるが、ゴローニンは松前で釈放されるとそのままロシアに帰国しており、長崎に滞在したことはない。松前での経験からではこうした記述は困難であり、間接的な知識であろうと思われる。

カルタが長崎でオランダ人から伝わったというのは当時の日本での理解であり、後に大正年間(1912~26)に新村出がポルトガル伝来説を主張するまで疑われることなく通用していた。次に、日本のカルタは四十八枚一組だという事実に気付くには、それなりに対象に密着した観察が必要である。松前の獄舎で、番人たちが職務を懈怠してカルタ賭博の遊技にふけっている様を、獄舎の格子戸越しに、言葉も通じない囚人として見ていただけでは四十八枚という正確な数を知ることはできない。ゴローニンが実際に日本のカルタで遊技したかどうかは分からないが、少なくとも手にしたことはあるのではないか。ここまで日本のカルタに接近していたであろうことに興味を惹かれる。なお、不祥事としてゴローニンが挙げたのは喧嘩と殺人事件である。日本語への翻訳では、明治年間(1868~1912)の海軍軍令部の翻訳以来こうなっているが、昭和十八年(1943)の井上満訳の岩波文庫版では「喧嘩が起り、自殺事件もあったため」[2]とされている。どういう理由があって殺人事件が自殺事件になったのかは分からない。

なお、これは日本語の翻訳者の混乱に過ぎないのであるが、岩波文庫版では原注が「日本人は法網をくぐるために、四十八枚の花札を考案した」と翻訳されている。この翻訳が正確であるとすると、この書は「花札」に言及した最古の外国語文献ということになるのだが、すぐにそれは「四十八枚のカルタを考案した」という記述を翻訳者が勝手に花札とした誤訳[3]であることが判明した。翻訳者がなぜ、カルタという日本語を使わないで花札という言葉にしたのかは理解できない。もしかすると、トゥーンベリの著書の翻訳者と同じように、カルタという言葉を使うと「百人一首かるた」や「いろはかるた」が使われていたと読者に誤解される危険性があり、それと区別するために賭博カルタと翻訳したいところであるが、賭博カルタには花札しかないのだから、回りくどい「賭博カルタ」ではなく「花札」の方が分りよかろうとでも考えたのであろうか。余計なお世話であった。今では、他の翻訳者による翻訳[4]では、正しく「四十八枚組のカルタ」と表記している。


[1] ゴロヴニン著、井上満訳『日本幽囚記』上編、岩波文庫、昭和十八年。ゴロウニン著、徳力真太郎訳『日本俘虜実記』(下)、講談社学術文庫、昭和五十九年。

[2] 前引ゴロヴニン『日本幽囚記』上編、三八九頁。

[3] この誤訳を信じて花札の歴史を書いたものに、たとえば紀田順一郎『日本のギャンブル』、桃源社、昭和四十一年、九三頁がある。

[4] 前引注1ゴロウニン『日本俘虜実記(下)』、一七頁。

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