ブロンホフに次いで日本の文化をヨーロッパに紹介したのはオランダ商館員でブロンホフの部下であったヨハン・フレデリク・ファン・オーフェルメール・フィッセル(Johan Frederik van Overmeer Fisscher)である。フィッセルはカルタにも関心があったようである。その『日本風俗備考2』[1]は次のように述べている。

このほかにも骰子を用いた仲間同士の遊びや、カードを使っての金言遊び〔いろはガルタの類か〕がある。すべての運に賭ける遊戯即ち冒険的な遊戯あるいは骰子遊戯といった方が的確であろうが、そういう遊戯は最も厳重に禁止されているのである。しかしながら、骰子もカルタも公然と人に見せることは許されないのであるが、この遊戯が密かに行われている場所がいくつかある。

だが、記述はこれに尽きていて、「いろはカルタ」と「めくりカルタ」以外のカルタ類についての情報はない。ここでフィッセルが「カードを使っての金言遊び」をカルタの一種と認識していたのかどうかはよく分からない。今日では百人一首やいろは譬えかるたといった日本式のかるたもカルタと同じグループの遊技具と観念されているが、江戸時代にこれを始めてみたヨーロッパ人が、紙製で長方形の形状こそカルタと似ているが、その内容、図像、遊技法がまるで違うこれらのものを果してカルタと認識できたのであろうか。

日本風俗備考
『日本風俗備考』
幕末の日本語訳本と原著

これまで見て来た外国人の記録では、日本式のかるたは無視されていて、フィッセルがこれに触れた最初の外国人であるが、その言葉遣いを見ると、「カードを使っての金言遊び」であって「カルタを使っての金言遊び」ではないことが気になる。ヨーロッパ人の眼から見ると、「カルタ」はカードの内容を伏せた裏配りのゲームであり、一方「カードを使っての金言遊び」は表配りのゲームである。日本人は、ずっと長い間両者ともに「かるた」と認識してきたので不思議に思わないが、初めて見た外国人には、長方形の紙片ということ以外には何も共通点もない両者を「かるた」という一つのカテゴリーにまとめて認識することはできなかったのではなかろうか。それはちょうど碁盤と将棋盤が、平たい盤ということ以外にはその構造も機能も全く違い、線で囲まれた八十一の空間に駒を置いてゆく将棋盤と、三百六十一の直線の交点に石を置いてゆく碁盤を一つのカテゴリーにまとめて理解しようとしないようなものであったことであろう。これが異文化の接触なのだと思う。

ただしこの点は翻訳者の関心をひかなかったらしく、翻訳書では、ここに〔いろはガルタの類か〕という訳注があり、「カード」と「カルタ」の使い分けというこの微妙な論点は軽々と飛び越えられている。

フィッセルも帰国時に日本の物品を各種持ち帰っておりそれはライデン国立民族学博物館に保存されている。ただ、博物館のスタッフの話では、同館には、ブロンホフ・コレクション、フィッセル・コレクション、シーボルト・コレクションがごちゃ混ぜに収蔵されており、ブロンホフ・コレクションには詳細な目録があるが、フィッセル・コレクションとシーボルト・コレクションには簡単なリストしか存在せず、加えて、シーボルトがヨーロッパ各地で行った日本展覧会に際して、同館のフィッセル・コレクションから記録もなしに相当数のものを持ち出して展示に使い、その返却もスムースではなく、後にシーボルト・コレクションとして一括して引き渡されたので、各コレクションの物品が混同されている。カルタもこの事故の被害を受けており、すぐ後で扱うシーボルト・コレクションのカルタ札は、その時代的な特徴から見ると、シーボルトよりは少し古い時期にフィッセルの持ち帰ったものである可能性が高い。

フィッセル・コレクション中の賭博場・茶房の模型
「フィッセル・コレクション中の
賭博場・茶房の模型」

なお、ブロンホフ、フィッセル、シーボルトは日本の家屋の模型を持ち帰っている[2]。フィッセルのものの中に「賭博場・茶房」がある。ただし、残念なことに説明の文章がないので、詳細は不明である。





[1] フィッセル著、庄司三男、沼田次男訳注『日本風俗備考2』平凡社東洋文庫三四一、昭和五十三年、七二頁。

[2] 野口憲治「シーボルトがみた日本の近世町屋の特質-オランダへ渡った日本の町屋模型の分析―」『日本工業大学』第四十七巻第一号、日本工業大学、平成二十九年、一四頁。

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