名川は、確かに記録上は日本に最初に「麻雀」をもちこんだ人物であり、樺太の中学校の教員であったのでその周辺で「麻雀」の遊技を楽しんだと思われるが、それだけの話である。名川がどんなルールで遊んだのかが分かればすばらしかったのだが、そういう記録は残っていない。

名川を別とすれば、日本で「麻雀」が遊技として本格的に普及するようになったのは、第一次世界大戦後に日本が勢力を伸ばしていた、関東洲、上海市、北京市、山東省、その他の地域から流入するようになったからであるが、それは、上海市や北京市に滞在する欧米人の間でこの遊技が流行したことに多分に影響されている。また、1923年のアメリカでの大流行の結果、「麻雀」が国際航路の船旅での時間つぶしの娯楽として広く用いられるようになった。日本の客船にも積載された。当時、外国に洋行できるのは限られた上流階級のエリートとその家族であったから、こうした船旅での経験を基にして日本の上流階級の家庭でも「麻雀」が遊ばれるようになり、中国の庶民の賭博遊技という低評価であった「麻雀」のイメージがずいぶん向上した。また、大正期(1912~1926)の日本の文壇で作家の間でもこれが流行し、「文士麻雀」として世間の注目を集めた。こうした追い風も重なって、「麻雀」が日本社会に急速に普及したのである。カルタ賭博には新しいライバルが登場したことになる。

こうした大正期(1912~1926)の草創期に「麻雀」の魅力に触れて日本に持ち込んできて普及に努めた者としては、上海市の井上紅梅、北京市の榛原茂樹、山東省の麻生雀仙、大連市の中村徳三郎、そして天津市の林茂光などの名前が残っている。

井上紅梅「闘麻雀牌」(『支那風俗』)
井上紅梅「闘麻雀牌」(『支那風俗』)

井上紅梅は本名が井上進で、明治十四年(1881)に東京に生まれた。七歳の時に銀座尾張町に井上商店を経営する井上家に養子に入ったが商業への才能を示せないで廃嫡になり、大正二年(1913)に単身で中国、上海に移住した。井上は、文芸にセンスがあり、日本では未紹介の中国文学作品の翻訳を進めた。その一環として、日本では無名であった魯迅という新進作家の作品の翻訳も行っている。だが、それ以上に井上を特徴づけるのは井上が当時の中国の五大道楽「吃」「喫」「嫖」「賭」「戯」(食道楽・アヘン道楽、酒道楽、女道楽、博奕道楽、芝居道楽)に深く沈澱して体験し、それを風俗研究[1]として執筆して日本に紹介したことである。「麻雀」もまたその一つで、井上は当時まだ日本では知られていなかった「麻雀」の解説書、遊技法の教則本を執筆して紹介した。

榛原茂樹は本名が波多野乾一で、明治二十三年(1890)に大分県に生まれた。長じて上海にある東亜同文書院に学び、卒業後は朝日新聞や時事新聞の中国特派員として働いた。波多野も中国文化に深く傾倒し、特に京劇などの演劇の造詣が深く、当時の代表的な俳優であった梅蘭芳とも親交があった[2]。波多野が書いた『支那劇大観』[3]は中国人も及ばない京劇研究の名著である。波多野はまた、中国共産党への関心も高く、後に執筆した『共産党史』[4]は共産党自身でも書けないほどに真実に肉薄していて、第二次大戦後に日本を占領したアメリカの情報機関は波多野の所持していた中国共産党研究の全資料をアメリカに持ち去ったと言われたほどである。こうした波多野が榛原茂樹という名前で活躍したのが「麻雀」の世界であり、その著作『麻雀精通』[5]は「麻雀」研究の古典であり、また、金銭をかけないで純粋にゲームとして「麻雀」を楽しむべきであるという主張は今日の競技麻雀、健康マージャンの先駆者といえる。

麻生雀仙は本名が賀来敏夫、明治二十三年(1890)生まれで、東亜同文書院卒業後、上海市、山東省に滞在し、帰国後、銀座に日本最初の麻雀クラブを創設して普及に努めた。

中村徳三郎は本名が金澤熊郎で、大連市で麻雀荘を経営しており、大正十三年(1924)『麻雀競技法』[6]を、昭和三年(1928)に『麻雀疑問解答』[7]を著した。その後帰国し、東京銀座に麻雀荘を経営し、麻雀牌の輸入業も行った。

ジョセフ・バブコック
ジョセフ・バブコック

林茂光は本名鈴木郭郎、静岡の出身で拓殖大学卒業後、天津市で商社の仕事をしていて、大正十一年(1922)に帰国後、日本最初の麻雀荘と言われる東京都新宿区神楽坂のプランタンで「麻雀」の遊技法を教えた。当時、東京浅草の「下方屋」(「上方屋」の支店)が、まだ日本にやってきて間もない「麻雀」の用具には骨牌税の適用がないことに注目した。明治二十年代(1887~96)に「上方屋」が教則本をおまけに付けて「花札」やトランプを売り出して大成功を収めた経験があったので、それを真似て鈴木が林茂光という筆名で女性向けに雑誌に書いた「麻雀」のゲーム解説を基にした書籍を執筆させて、その『支那骨牌・麻雀』[8]を麻雀牌に添付して売り出すという販売戦略を立てて実行した「麻雀」の世界でも、アメリカ人のジョセフ・バブコックは教則本付きで麻雀牌を売って大成功したが、その教則本は表紙が赤色だったので『レッド・ブック』と呼ばれて世界的なベストセラーになっていた。「下方屋」はこれを真似て林の教則本の表紙を赤色にしてこれを「赤本」と呼んだが、主要には販売する麻雀牌のオマケとして配布した。このことを通じて、「麻雀」遊技の指導者としての林の地位が確立した。

下方屋の麻雀牌、林茂光『支那骨牌 麻雀(マアチャン)』
下方屋の麻雀牌、林茂光『支那骨牌 麻雀(マアチャン)』

[1] 井上紅梅「賭博の研究」『支那風俗』第二巻第六号、支那風俗研究会、大正八年。同「賭博の研究」『支那風俗』中篇、日本堂書店、大正十年、四頁。

[2] 波多野乾一と梅蘭芳の交際については、江橋崇「老朋友・時代と闘った暁の星立ち」『麻雀博物館会報』第十三号、竹書房、平成十八年、三頁。

[3] 波多野乾一『支那劇大観』大東出版社、昭和十五年。

[4] 波多野乾一『中国共産党史』、昭和七年。同『資料集成中国共産党史第一巻』時事通信社、昭和三十六年。

[5] 榛原茂樹『麻雀精通』春陽堂、昭和六年。

[6] 中村徳三郎『麻雀競技法』、千山閣、大正十三年。

[7] 中村徳三郎『麻雀疑問解答』、千山閣、昭和三年。

[8] 林茂光『支那遊戯・麻雀』、華昌号、大正十三年。

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