昭和二十年(1945)、全面的な敗戦に終わった第二次世界大戦はカルタ文化にも大きな傷跡を残した。まず、アジア各地への膨張の最前線にあった花札は、その大きな市場を失った。とくに、朝鮮、満洲、中国の市場を失ったことが大きなダメージであった。また、大阪を始めとして、アメリカ軍による都市爆撃で花札業界の生産システムも大きな被害をこうむった。だが、最も中心的な生産地であった京都は空襲を免れたので、かるた業界は伝統産業として生き延びることとなった。前近代的な手工業の要素を大きく残しながら、戦後の花札の生産が始まった。

敗戦後の混乱した社会では、戦争の遂行のための抑圧と搾取と犠牲から解放されて自由が戻り、アメリカ軍による占領と支配という新たな問題は生じたものの、人々の気持ちも明るさを取り戻して、そこには、賭博文化も花開いた。賽ころ賭博や花札賭博などのさまざまな伝統的な賭博も栄えたが、麻雀は遊技法を一新させて流行した。パチンコも、当初は子どもの遊戯具であったが、業界独自の景品換金システムを作りだして警察が黙認することで大人の賭博産業として成立した。

この時期に大きく成長したのが、江戸時代の富くじを現代社会に復活させた宝くじや、競馬、競輪、競艇のようなスポーツを観戦して賭けて楽しむ公営ギャンブルである。非合法な相撲賭博や野球賭博も根強い人気を得て行われていたし、ずっと遅れて二十一世紀に入ってから公営のサッカーくじも始められた。これらの見る賭博を、競技に参加する賭博と分けてギャンブルと呼んでおきたい。人々は大きな戦争の被害を受け、食糧不足などの物資の欠乏に苦しみ、インフレの亢進に苦しみながら、なんとか生活の再建を果たそうと試み、こうした苦しい生活の中で、手近な慰安を賭博やギャンブルに求めたのである。

かるた業界はいち早く生産を開始できたので、こうした流行の波に乗り、カルタも増産されることになった。需要の拡大がそれ以上だったので、遊技札の製作が間に合わないほどであった。そして、敗戦後の社会でカルタ、とくに花札の家庭遊戯としての復活を念願してその主張の声を挙げたのは、戦前に阿部徳蔵の知遇を得ていた片桐童二であった。片桐は、トランプと花札の遊技法をまとめた入門書[1]の花札編の冒頭で「花札は元来、日本人の花鳥風月に対する風流心が生んだ典雅な遊戯である。‥‥色々な遊びもこの風流心乃至は詩心から出発したものが多いが就中、この花札に至つては、一月から十二月まで、その月々の花鳥風月を組み合せて、自然への憧れをあらはしてゐるまことに風流な遊びと云へるのである。‥‥花札も、だから、賭博の具と卑しめられては浮ばれないのである。もつと花札の風流味をいとしんで、健全な家庭の娯楽にまでひろめたい」[2]と述べているが、そうした片桐でさえ、実際に解説する遊技法は「八八花」と「カブ」にせざるをえなくて、「習慣上、どうも賭博的な色彩が強くなって家庭的には面白くないやうである」と弁解している。片桐はこの後には、随筆家として、家庭ゲーム、奇術、スポーツ、性文化、歴史実話の世界などで執筆、翻訳に取り組んだが、必ずしも花札イメージの正常化に継続して健筆をふるったものではない。しかし、本書で片桐が示した見解は、第二次大戦後のカルタ文化、花札文化の再スタートを示す理念として取り上げるに足りると思う。


[1] 片桐童二『トランプと花札』日本出版広告社、昭和二十二年。

[2] 片桐童二、同上、一〇六頁。

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