こうしたかるた業界の動きをコントロールしたのは骨牌税法であった。昭和二十年(1945)八月の敗戦時には一組三円の税額であったものを、昭和二十一年(1946)九月に三十円に増額した。しかし、この増額は花札の大きな需要を抑えるほどではなかったので、昭和二十二年(1947)十二月に税額が一組一百円とされ、翌昭和二十三年(1948)六月には一百三十円にまで増額された。この二回の増額はさすがに重い負担となり、花札などは高級品でも倍額、普及品にいたっては三倍以上の販売価格になり、他の種類の賭博に対する競争力を弱めた。それに加えて、カルタには屋内で行う古い賭博というイメージがあり、戦後社会は競馬、競輪のように屋外でギャンブルを明るく楽しむか、あるいたパチンコのように開放的に設えた専用の店舗で楽しむ賭博を好んだこともあり、都市住民の間では花札の人気は低迷することとなった。

税額三円のトランプ(任天堂)
税額三円のトランプ
(任天堂)
税額十円の花札(小原商店本店)
税額十円の花札
(小原商店本店)
税額百円の株札(任天堂)
税額百円の株札
(任天堂)
税額百三十円の花札(田中玉水堂)
税額百三十円の花札
(田中玉水堂)

なお、麻雀やパチンコの流行に対しては、昭和二十三年(1948)の「風俗営業法」(昭和二十三年法律第百二十二号)が、その第二条第七号で「まあじやん屋、ぱちんこ屋その他設備を設けて客に射幸心をそそるおそれのある遊技をさせる営業」を「風俗営業」の一種、いわゆる「七号営業」として定めて、営業時間規制(第十三条)、十八歳未満の未成年者の入場禁止(第十八条)、遊戯料金の規制(第十九条)、遊戯機の規制(第二十条)などを加えた。

敗戦後の日本社会は、アジア各地からの復員、帰還もあって、それまで国外への膨張に向けられていたエネルギーが再び日本国内に逆流して、復興とそれに続く国内の再開発、高度成長経済を実現していった。この逆流するエネルギーの最先端の現場が、敗戦直後では、傾斜生産方式の下で経済再建の柱とされた鉄と石炭の生産の現場、つまり製鉄業と石炭鉱山であった。全国が飢餓に苦しむ中であったが、この二つの産業には集中的に投資が進められて、金も食料もその他の物資も溢れていて、その好景気と豊かさがさらに多くの労働者をひきつけた。海外から引き揚げた多くの人間もそこに引き寄せられた。そして、過酷な労働を担った労働者の間でその慰安としてカルタ賭博は流行し、三井三池炭鉱にせよ、夕張炭鉱にせよ、あるいは北九州の製鉄関連の地域にせよ、いずれも花札の一大消費地となった。

なお、この時期に、花札が少量ではあるがアメリカ、主としてハワイに輸出されたことも触れておこう。戦前のアジア各地への花札の輸出、東南アジア向けの中国系の紙牌の輸出、そして、シンガポール、インドなどへのトランプの輸出に比べれば微々たるものであるが、それでも花札は戦後の輸出産業の一翼を担ったのであり、包装紙にMADE IN OCCUPIED JAPANと印刷された花札がその実情を物語っている。

米軍占領期間に対米輸出された花札(部分拡大)
米軍占領期間に対米輸出された花札
(MADE IN OCCUPIEED JAPAN 部分拡大)

米軍占領期間に対米輸出された花札
米軍占領期間に対米輸出された花札

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