天正カルタのドラゴン・カード
天正カルタのドラゴン・カード
(上段:火焔龍のハウ、イス、コップ、
下段:蝙蝠龍のハウ、イス、コップ、オウル)

まず注目するべきは、日本のカルタには火焔龍と蝙蝠龍の二系統があるという事実である。火焔龍は①「南蛮文化館」蔵のカルタにすでにあらわれ、その後、手描きの天正カルタ、うんすんカルタ、「すんくんカルタ」に継承されている。そして、うんすんカルタにおいては、紋標「こん棒」に花が加えられるようになると火焔龍が口にくわえるこん棒にも花がつけられる。一方、木版摺りの天正カルタでは、⑥「天正カルタ版木硯箱」においてすでに蝙蝠龍であり、火焔龍はない。悩ましいのは木版摺りの「すんくんカルタ」で、六種類の紋標の龍はすべて火焔龍であり、そこにさらに一枚、蝙蝠龍の「棍棒」の「一」のカードがジョーカーのように付け加えられている。

このことから私は、日本には火焔龍を持つ南蛮カルタと蝙蝠龍の南蛮カルタの二系統が伝来したと考えている。先走って言えば、前者はその後京都二條界隈 のかるた屋で美麗な手描きカルタとなり、後者は六條坊門(五條橋通)の木版カルタ屋の大衆向けのカルタになったと考えている[1]。ここでいう蝙蝠龍のカルタのモデルはベルギー製のカルタであるが、火焔龍のカルタのモデルは明らかでない。一般にヨーロッパの龍は口から火焔を吐くことはあるし、広げた羽根が火焔に見間違えられることはあるが、火焔を身にまとうことはない。一方、中国の龍はしばしば全身に火焔をまとう火焔龍として描かれる。ただし、こうだからといって、火焔流のカルタはポルトガル船伝来ではなく中国伝来だと言い切るのは危険である。古く永見徳太郎も言っているように人物図像の衣服が中国服っぽいということもあるので、この可能性はもちろん有力に存在するのであるが、古くから中国の龍に接していた日本人が、羽根を広げた「南蛮カルタ」の龍を見て火焔龍と誤解した可能性もまた残るのである。いずれにせよ、蝙蝠龍はヨーロッパの龍であり、火焔龍はアジア化した龍であると考えられるのであり、日本のカルタには二系列があることになる。これが成立年代の違いによる相違ではなく、製造者による違いであり、ブランドの様に同時期に併存していたことが特に関心を引く。

天正カルタのサイズの変化
天正カルタのサイズの変化

次に、残されている数点のカルタの比較からでも浮かび上がるのは、天正カルタのサイズの変化である。当時のヨーロッパの標準的な大きさのカルタが日本に伝来したと考えると、①「南蛮文化館」蔵のカルタや⑥「天正カルタ版木硯箱」はすでに少し小型化したものである。そして、⑥「天正カルタ版木硯箱」において既に生じている、「オウル」紋の周辺を切り落とすという世界のカルタ史上の珍事というべき改変の跡から、それが南蛮カルタの図像を縮小するのではなく、縁の部分を切り落として成立した日本固有のデザインであることが分かる。そしてその後、天正カルタは縁の部分をさらに切り落とされて③滴翠美術館蔵のカルタの大きさになり、元禄年間(1688~1704)には⑨滴翠美術館蔵の「天正カルタ版木煙草盆」のカルタのように、他の賭博カルタと同じ大きさのものになった。私は、①「南蛮文化館」蔵のカルタを第一期、③滴翠美術館蔵の天正カルタを第二期、⑨滴翠美術館蔵の「天正カルタ版木煙草盆」のカルタを第三期と考えている。

 したがって、日本に伝来した「南蛮カルタ」は大型で、火焔龍の手描きカルタと、蝙蝠龍の木版カルタの二種があったが、その後徐々に小型化が進行して元禄年間(1688~1704)には今日の花札や株札とほぼ同じ大きさにまで縮小されたと考えられるのである。


[1] 京都におけるカルタ制作地について、江橋崇『ものと人間の文化史173 かるた』、法政大学出版局、平成二十七年、九九頁。

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