手描き木版天正カルタ
「手描き木版天正カルタ
(元禄年間頃、『遊びの流儀 遊楽図の系譜』)」

令和元年(2019)六月、東京のサントリー美術館で「遊びの流儀 遊楽図の系譜」展が開催され、そこに江戸時代前期(1652~1704)の手描きの「天正かるた」一組三十七枚[1]が出品された。このカルタは縦五・三センチ、横三・二センチの小型で、第三期のカルタ札の大きさに匹敵する。それは金色の料紙の上に手描きで図像が描かれ、赤色、黄色、緑(紺)色に彩色されている。なお、展示でははっきりと分からないが、裏紙は金無地で、縁返しの手法で仕上げられていると思われる。

「オウルの三」「オウルの五」「オウルの六」
「オウルの三」「オウルの五」「オウルの六」

このカルタの図像は木版手彩色の中期天正カルタ(三池カルタ)、③滴翠美術館蔵の「ハウのキリ」や⑦神戸市立博物館蔵の「カルタ版木重箱」の図像に酷似しており、とくに、絵札がそっくりであるほか、「オウルの五」の札の中央のオウル紋にある顔面の図像、「オウルの六」、紋標「ハウ」や「イス」の数札に付属する草花模様など、特徴的なポイントがどこも類似しており、両者の密な関係が窺われる。これは、天正カルタ関連の遺品がごく希少で、とくに残存する木版カルタ札そのものが滴翠美術館の「ハウのキリ」一枚しかない中で貴重な史料の新出である。令和のカルタ史研究がこういう新出史料の解析から始められることを幸運に思う。

ここで特に強調しておきたいのは、木版天正カルタの彩色である。上掲の③滴翠美術館蔵の「ハウのキリ」の札からこの札の彩色は分かるが、カルタそのもので残されているのはこの史料だけであり、⑦神戸市立博物館蔵の「カルタ版木重箱」は版木が残るだけなので、図像の描線は四十八枚がすべて分かるものの、カルタ札の彩色については見当もつかない。また、いわゆる「うんすんかるた模様」の重箱や茶碗、香合などの茶道具の彩色も参考にしたが、信頼できる決定的に正確な彩色の遺品は見つからなかった。そこで、かつて大牟田市立三池カルタ記念館で三池カルタの復元を行った際には、彩色に関する史料がなく、やむなく同時代のヨーロッパのドラゴン・カードの遺品を参考にして判断した。その欠落を埋めるように、三十七枚もの多数で彩色のある遺品が出現したのであるから、その史料的な価値は計り知れないほどに貴重である。また、残存する三十七枚の札の中には、③滴翠美術館蔵のものと同じ「ハウのキリ」の札も含まれているので、両者の異同が直接に比較研究できるという幸運にも恵まれている。私は、展覧会の会場で驚喜し、踊り出したい欲求を懸命に抑えて展示品に見入った。

ここでまず問題なのは、③滴翠美術館蔵の「ハウのキリ」の札と「遊びの流儀 遊楽図の系譜」展の展示品、両者の前後関係である。手描きのカルタ札は木版のカルタ札を写したものなのか、逆に、手描きの札が先にあり、木版の札がそれをモデルにして成立したのか、である。図像からは先後の関係は判断しがたいが、ここで重要な指標が札の大きさである。「遊びの流儀 遊楽図の系譜」展のものは③滴翠美術館蔵「ハウのキリ」や⑦神戸市立博物館蔵の「カルタ版木重箱」のものよりも一回り小さく、天正カルタが、元来は縦十センチほどの大きな南蛮カルタから、第一期天正カルタ(縦七・四センチ、横四・一センチ又は縦七・三センチ、横四・五センチ)、第二期天正カルタ(縦六・三センチ、横三・四センチ)から徐々に縮小した経緯からすると、第二期のやや大きめの③「ハウのキリ」や⑦「カルタ版木重箱」のものが先で、縦五・三センチ、横三・二センチの「遊びの流儀 遊楽図の系譜」展のものは何十年か後の第三期に属するということになる。

図像の先後関係ということで言えば、「遊びの流儀 遊楽図の系譜」展のカルタ札は、世の中にまだ江戸時代初期(1603~52)の木版天正カルタ(三池カルタ)の情報が残っており、それを正確に模写できた時代に作られたと考えられる。おそらく、木版天正カルタの遺品がまだ豊富に残っていた時期であろう。もしかしたら、まだ引き続き細々と制作され、使用され続けていた時期であったのかもしれない。そう思わせるほどに両者は酷似している。

ただ、せっかくの画期的な展示品に難癖をつけるようで申し訳ないがあえて指摘させてもらうと、「遊びの流儀 遊楽図の系譜」展のカルタ札の絵師は、「ハウのキリ」が手にするこん棒や、紋標「コップ」の図像の中央にあるベルト状の部分などで、本来はヨーロッパのドラゴン・カードでも日本の天正カルタでも横線が多数引かれていた部分を、交差する細かい網目状で表現している。この違いは画像の印象を左右してよく目立つ。また、紋標「オウル」の図像では、中心部をヨーロッパのカルタ札は赤色と緑色に半分ずつ色分けし、日本の木版のカルタ札でも、現代にいたるまでそれが継承されている一方で、手描きの「ウンスンかるた」では、色を変えた同心円に彩色されている。「遊びの流儀 遊楽図の系譜」展のものは、そのどちらにも属さない固有の彩色である。その他、随所に残る白色の彩色など、何点か、模倣が手本からずれている描写や彩色があり、先後の関係は明らかである。

もう一点、裏紙の問題がある。③滴翠美術館蔵の「ハウのキリ」は木版で「三池住貞次」とあり、⑦神戸市立博物館蔵の「カルタ版木重箱」のものも同様であろうと推測される一方で、「遊びの流儀 遊楽図の系譜」展のものは金色で無地のものと思われるので、この点でも木版の裏紙が古く、金色紙がその後のものという先後の関係にある。さらに、裏紙に、従来の銀色紙ではなく、金色で無地の紙を用いるのは元禄年間(1688~1704)頃の様々な種類のカルタ札に共通して見られる流行であり、この点からも「遊びの流儀 遊楽図の系譜」展のものの成立した時期は木版天正カルタ(三池カルタ)の遺品より数十年後の時代のものと推測できる。

したがって、問題関心は、なぜ元禄年間(1688~1704)頃に、この様な小形の、賭博遊技用の、松葉屋カルタやほてい屋カルタと同じ大きさの天正カルタ札をわざわざ多額の費用をかけて黄金を用い、手描き、手作りで制作したかという点に及ぶ。高価な手工芸品であるので、京都の宮廷や江戸の大奥で遊技に使われたものでありうるが、札の品格としては最高級とは言えず、実際、他の遺品に比べると格が落ちる。また、カルタ札の四隅は角ばった物として直角に作るのが江戸時代の全期を通じたカルタ制作の作法であり、丸く面取りしたようになっているのは使用されてすり減ったものであることを意味する。それだけ頻繁に使用された札というのは、下々の家庭には残されているが、上流階級では同じカルタ札をそれほど頻繁に使うことはなく、多少でも裏面に傷ができれば廃棄して新品に代えるので残されていないことが多い。こうした、「遊びの流儀 遊楽図の系譜」展のカルタ札に見える相当の既使用感も気になる点である。

私は、このカルタは、元禄時代のお大尽が遊郭での賭博遊技用に特注で制作させて実際に使ったものではないかと推測している。制作された当時から高価で珍しいものであり、持ち主が気に入って頻繁にこれで遊技したので四隅の角が取れ、表面の顔料にも剥げ落ちる部分が生じて何時しか使われなくなったが、高価で希少なものなので捨てるのではなく、周囲にいた誰かが保存して、結局、今日まで残存したという来歴を想像したくなる。この話には、もちろん史料的な裏付けが欠けている。研究の文章としては逸脱しているが、展示会場での直感的な想像を書き残しておきたい。

以上の予備的な検討を経て、いよいよ、カルタ札の彩色に関する情報の整理である。「遊びの流儀 遊楽図の系譜」展のカルタ札は、顔料がひどく剥離しているが、痕跡は明確に残っているので史料としては問題なく有益である。そして、これを見てまず思うのは、緑色の変色である。もともと、当時のヨーロッパのドラゴン・カードは、赤、黄、緑の三色で彩色されており、それを模した日本の天正カルタも、滴翠美術館の「ハウのキリ」などによれば、同じく赤色、黄色、緑色である。そして、江戸時代前期(1652~1704)に、もっと安価な賭博遊技用のカルタとして、京都の「松葉屋」や「ほてい屋」などで、黄色の部分は彩色を省略して、赤色と緑色の部分について、赤色と紺色の二色で彩色したカルタ札が制作されるようになった。そして問題は「遊びの流儀 遊楽図の系譜」展のカルタ札である。この札は、緑色であるべき部分が妙に紺色に近い。③滴翠美術館蔵の「ハウのキリ」に残る緑色も退色しているが、「遊びの流儀 遊楽図の系譜」展のものとは違って元々が緑色であったことは判読できる。これに比べると、「遊びの流儀 遊楽図の系譜」展のものは変調している。緑色の顔料に紺色の顔料を混ぜて使用したのか、それとも、もうほとんど紺色の顔料を使ったのか、いずれにせよ、赤、黄、緑の三色という規準からは外れている。これも天正カルタの歴史としては末期に現れる症状であり、元禄年間(1688~1704)頃の作である証明になるポイントであろうか。

次に、「遊びの流儀 遊楽図の系譜」展のカルタ札を細かく見ると、絵札では、自己流に変更している部分が見える。例えば「キリ」が座る箱状の椅子であるが、本来は緑色であるべき部分を、一度緑色(紺色?)に塗った上から赤色に加色している。この違いも③滴翠美術館蔵の「ハウのキリ」と並べて比較するとよく分かる。同様に、「キリ」の着衣の配色も独自な特徴がある。したがって、このカルタ札から元来の木版天正カルタ(三池カルタ)の配色を推測する作業には限界がある。

だがしかし、このカルタは、まごうことなく、江戸時代前期の木版天正カルタ(三池カルタ)の姿を映し出す同時代の物品史料であり、その史料的価値は計り知れない。例えば、江戸時代前期(1652~1704)の基本文献史料である『揚州府志』が京都、六條坊門(五條橋通)のカルタ屋は通常のカルタと高級な「三池」を制作していると記述しているのを読んで、私などは、小型の賭博遊技用カルタと、一回り大きなサイズの第二期の「三池カルタ」を指すと思っていたが、「遊びの流儀 遊楽図の系譜」展の史料が、一回り大きなものを縮小したのではなく、同サイズの小型の第三期の「三池カルタ」が存在していて、それを等倍の大きさに模倣したものであったという可能性が生じている。このように、この新史料を得て、従来の理解は、私のものも含めて見直すことになる。そして、新史料が示す史実の前では、旧来の観念を捨てて虚心でいたい。もしこの史料が、三池カルタ復元作業よりも前に明らかになっていたならば、彩色についてはもち論私には私なりの判断があるのだが、それでも、たとえば絵札の着物の配色はこのカルタの情報を尊重してそれに従って行ったであろう。そんなややほろ苦い思いもさせる、実に貴重な史料である。この史料を提供した所蔵者と展示、公開、目録上での記録に踏み切った展覧会の企画者に感謝したい。


[1] 『サントリー芸術財団50周年 遊びの流儀 遊楽図の系譜』サントリー美術館、令和元年、一三六頁。

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