賀留多(『雍州府志』
「賀留多」(『雍州府志』、貞享三年)

まず議論の基本的な骨組みの問題であるが、対象となるのは、『雍州府志』の中の「賀留多」に関する三百六十三文字の漢文である。研究室はそのサイトの開設当時から長期間にわたって、私が、カルタ史に関する論文や著作で、ここに登場する「合(アハセ)」(以下、『雍州府志』などでの「合」に仮名を付して「合せ」と表記する)というカルタの遊技法を論証抜きにトリック・テイキング・ゲームであると証明した気になって述べていると十年以上繰り返し批判してきた。だが、私は、『雍州府志』の「合せ」の記述は、これを表記のままに素直に読めば明らかにトリック・テイキング・ゲームを説明しているものと理解して矛盾ないと指摘してきただけである。

ここで、問題の内容を明確にするために、『雍州府志』の漢文、三百六十三文字の記載を記し、次にその内容を私の理解を基にして現代語訳して紹介しておこう。前者では文章の全体を五文節に区分し、句読点を付した。底本にあった振り仮名も記載した。後者では漢字を適宜に現代のものに変えた。

「賀留多 六條坊門製之、其良者稱三(ミ)池、以金銀箔飾之者謂箔賀留多、是於繪草子屋造之、元阿蘭陀人玩之、長崎港土人倣之為戯。

凡賀留多有四種紋、一種各十二枚通計四十八枚也、一種紋謂伊須、蛮國稱釼曰伊須波多、此紋形似釼、自一數至九、第十画法師之形是表僧形者也、第十一画騎馬人是表士者也、第十二画踞床之人是表庶人者也、一種紋稱波宇、蛮國稱青色曰波宇、此紋自一數至九数、第十第十一第十二同前、一種紋謂古津不、蛮國酒盃謂古津不、是表酒盃者也、一種紋謂於宇留、蛮國稱玉謂於宇留、是表玉者也。

其玩之法、其始三人或五人圍坐、其内一人左手取持賀留多、以裏面上下混雑、不見其畫配分而置各々之前、是謂切賀留多。其為戯謂打賀留多、然後人々所得之札(フタ)數一二三次第早拂盡所持之札是為勝、是謂讀(ヨミ)、倭俗毎事筭之謂讀。又互所得之札、合其紋之同者、其紋無相同者為負、是謂合(アハセ)、言合其紋之義也。

或又謂加宇、又謂比伊幾、或又謂宇牟須牟加留多、其法有若干畢竟博奕之戯也。

又賀留多札百枚、半五十札書古歌一首之上句、圍並床上中央残隙地、是謂地、又半五十枚書上歌之下句、是謂出(ダシ)、前所謂中央隙地出置所応手之下句一枚、圍座人各視之所在床上之上句與今所出置之下句、有相合者則取之、然後其所合取之札、筭多者為勝、筭少者為負、是稱歌(ウタ)賀留多、元出自貝合之戯者也。」

「カルタ 六條坊門でこれを制作している。その良いものは三池と称する。金銀の箔をもってこれを飾るものを箔カルタと言う。これは絵草子屋において造っている。元々はオランダ人がこれを玩び、長崎港の現地人がこれを模倣して戯れとした。

およそカルタには四種類の紋があり、一種は各々十二枚、通計すると四十八枚である。一種の紋をイスと言う。南蛮の国では剣を称してイスハタと言う。この紋の形は剣に似ている。一の数より九に至る。第十は法師の形を画く。これは僧形を表わすものである。第十一は馬に乗る人を画く。これは士を表わすものである。第十二は(高)床に座る人を画く。これは庶民を表わすものである。一種はハウと称する。南蛮の国では青色のことをハウと言う。この紋は一の数から九の数に至る。第十、第十一、第十二は前と同じである。一種の紋はコツフと言う。南蛮の国では酒盃のことをコツフと言う。これは酒盃を表するものである。一種の紋はオウルと言う。南蛮の国では玉を称してオウルと言う。これは玉を表わすものである。

その遊技する方法であるが、その始めに三人あるいは五人が囲んで坐り、そのうちの一人が左手にカルタを取り持ち、裏面を以て上下をかき混ぜ、表面の図像を見ないで配分して各人の前に置く。これをカルタを切ると言う。その遊技をすることをカルタを打つと言う。然る後に参加している人々が手元に得た札を一二三の次第に数えて所持する札を早く払い尽した者が勝ちとなる。これを読みと言う。倭俗にいつもこれを(声を出して)算えることを読むと言う。また、互いに得たところの札でその紋の同じものを合せ、その紋と相同じものがなければ負けとする。これを合せと言う。言うこころはその紋を合せるとの語義である。

あるいはまたかうと言い、またひいきと言う。あるいはまたうんすんカルタと言う。その遊技法が若干あるが、ひっきょう、博奕の戯である。

また、カルタの札百枚、半ば五十の札に古歌一首の上の句を書き、床の上に囲み並べ、中央に隙地を残す。これを地と言う。また半ば五十枚に上の歌の下の句を書き、これを出と言う。前のいわゆる中央の隙地に手に応じるところの下の句一枚を出し置き、囲んで座る人が各々これを視て床の上に在る上の句と今出し置いた下の句と相合うものがあればすなわちこれを取る。然る後に、その合せ取るところの札を算えて多い者を勝ちとし、算えて少ない者を負けとする。これを歌かるたと称する。もと貝合の戯から出たものである。

私は、『雍州府志』の底本として、貞享三年(1686)序が付いた都立中央図書館蔵の「初刻本」と国立国会図書館蔵の いわゆる「後刷本」を用いている。同書の出版は錯綜しており、「初刻本」では巻七、三十一丁表の三行目から同丁裏にかけて、前丁からの「風車」の記事に続いて「賀留多」の記事があり、巻十の後半で末尾付録の前に「貞享三丙寅年九月吉日 二條通小川西入町 書林 茂兵衛 加兵衛 同版」の刊記がある。以前から天理図書館蔵の刊本が著名であるが、今日ではほかに、国文学研究資料館蔵本、都立中央図書館蔵本も「初刻本」に含まれると判明している[1]。その後、巻七の「賀留多」の頁の記述はそのままで、十巻後半の刊記が削られて「貞享三丙寅年九月吉日 書林」だけが残された、同一の版木を用いた「後刷本」が出現した。国立国会図書館蔵本は、刊記を削った、比較的に「初刻本」に近いこの「後刷本」である。次に、巻七、三十丁裏の「風車」の記事の末尾の部分で三十一丁表の二行に及ぶ四十二字を削り、その代わりに、三十一丁表にできた二行の空隙に「韓(カラ)紙」という記事三十七文字の版木を埋木した改版の「後刻本」が現れた。京都大学に「韓紙」の記事のある「後刻本」が数種あり、昭和四十三年(1968)の『新修京都叢書』第十巻、平成九年(1997)の立川美彦『訓読 雍州府志』はいずれも京都大学蔵本を底本としている。なお、昭和九年(1934)の『京都叢書』第三巻では返り点はあるが訓点はない漢文の文章が掲載されており、兵庫県芦屋市の滴翠美術館の創設者、山口吉郎兵衛の『うんすんかるた』が抜粋して掲載しているものも同様である。こういう異版もあったのかと思うが私は実物では確認できていない。

こうした私の読解に対して、研究室は、ネット上で、私の論証が不十分であると批判するとともに、『雍州府志』は「合せ」という遊技法の説明の箇所で、フィッシング・ゲームの一種である「めくりカルタ」の前身「プロトめくり」の遊技法を説明しているという積極的な読解を示した。したがって、ここでは、『雍州府志』の記述をトリック・テイキング・ゲームとして理解するのと、フィッシング・ゲームとして理解するのと、どちらの方が合理的な説明であるのかという比較検証になる。以下、該当箇所を文節ごとに解読していこう。


[1] 「雍州府志」『増補京都叢書』第三巻、京都叢書刊行会、昭和九年。『新修京都叢書』第十巻、臨川書店、昭和四十三年。

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