南蛮カルタにあった、龍が紋標にまとわりつく「一」の札は、うんすんカルタでは「ロハイ」と呼ばれて絵札扱いになり、そこに空いた空隙を埋めるように、紋標が一つだけ描かれた「一」の札が新たに考案された。これはヨーロッパ人には到底考え付くことがなかったであろう発想であり、アジアの産物である。日本人の発想なのか、中国人の発想なのかは識別できない。新たに考案された「一」の札は、「ハウ」「イス」「コップ」「オウル」の紋標が一つだけ描かれたシンプルなもので、見た目が寂しいからであろうか、周囲に花唐草の模様が付加されているものが多い。このうち「ハウ」の「一」は「火焔龍グループ」でも「蝙蝠龍グループ」でも中央に直立した棒一本で表されるが、⑦の「滴翠九曜紋」は例外で「ロハイ」と同じ棍棒の図である。「イス」の「一」は赤い色に彩色された剣一つが描かれる。「蝙蝠龍グループ」の札では左上から右下に斜向して描かれるが「火焔龍グループ」の札では中央に直立して描かれる。
この奇妙な「一」のエキストラ・カードはなぜ考案されたのだろうか。元々は「一」を意味していたドラゴン・カードが「ロハイ」として「ソウタ」「ウマ」「キリ」等の絵札の仲間と思われたであろうことは想像がつく。とくに、トリック・テイキング・ゲームでは、場に投じられる札の強弱は弱い方から「ウマ」「キリ」「ロハイ」「ソウタ」という順序で強くなるのであるから、このことを知れば誤解は起きて当然である。そしてこの誤解があると、数札の「一」は空白になる。ここでもし、「一」がないと成立しない遊技法、あるいは「一」があったほうが楽しい遊技法であったとすると、単純に「一」の札を考案するであろう。
ところが、もし一組四十八枚のカルタで行う「読み」の遊技法を知っていれば、そこではドラゴン・カードは「一」として扱われるのであるから、それを絵札の一種であって「一」ではないなどと別に解することは起きるはずがないから、「ソウタ」のほかにもう一枚「一」の札を考案する理由がない。いや。むしろ、「一」の札が重複して遊技が混乱するであろう。ここから見えてくるのは、一組七十五枚のうんすんカルタは「読み」の遊技法が流行、普及する以前の、カルタの遊技がトリック・テイキング・ゲーム中心であった時期に考案されたであろうという推論である。
遊技法「読み」の歴史がいつ始まるのかははっきりとは分からないが、寛文、延宝年間(1661~81)には流行するようになっていたものと考えられる。それ以前の江戸時代初期(1603~52)には、寛永年間(1624~44)の絵画史料に「読み」の遊技と思われる場面を描いたものがあるが、広く流行するには至っていなかったのであろう。そうすると、うんすんカルタにおける「一」の札の考案は、いや、この「一」を含んだ一組が五紋標七十五枚のうんすんカルタそのものの考案は、「読み」カルタの遊技法が流行した江戸時代前期(1652~1704)ではなく、それ以前の江戸時代初期(1603~52)まで時代をさかのぼることになる。
ここでどうしても気になるのは、うんすんカルタの遊技では、なぜ、ドラゴン・カードが「一」の札と認識されなくなったのか、という点である。わずかに残る遊技法の史料を見ると、江戸時代の人々は、ゴラゴン・カードが、切り札の紋標では強力な上位の絵札になるが、切り札でなくなると、数札の「一」に戻ることもある札だとして遊技していたように思える。つまり、ドラゴン・カードが本来的に一種の絵札であり、それは決して「一」ではなく、従って天正カルタの数札は「二」から「九」までであり、「一」の数札はそもそも存在しないとは考えていなかったようである。そうだとすると、このようにドラゴンカードに「一」の属性も認めている社会で、そうした観念に反して、新たに別のデザインの「一」のカードを採用して、ドラゴン・カードを完全に「一」の札の埒外に放逐するのはとても奇妙な発想である。日本では、ドラゴン・カード、つまりロハイは、ゲームの展開の中で、時には絵札であるし、時には数札の「一」あるいは「一・五」でもあると認識されていたと考えると、それならば、ドラゴン・カードの留守に現れてその席を占拠した「一」の札の考案者はだれなのかという疑問が生じる。
こうなると思い起されるのが、中国の紙牌である。そこでは、古く唐(618~907)、宋(960~1279)の時代から数百年ずっと、各々の紋標について、「一」から「九」までの数札と数枚の絵札で構成されている。中国では、「一」のカードは、その紋標をシンプルに一つ描くだけのデザインである。そういう数百年続いてきた自国の伝統のカードを見慣れている中国人であれば、十七世紀にヨーロッパのカードが伝来した時、それを中国の基準で観察して、ドラゴン・カードを絵札として認識し、そこには数札の「一」が存在しないと理解しても不思議ではない。つまりヨーロッパのカルタは自国、中国のカルタと比べると不十分な構成のものである。中国人には、紋標が一つで、それにドラゴンがまとわりついているドラゴン・カードを「一」の札とみることは難しい。絵札は、「ソウタ」でも「ウマ」でも「コシ」でも皆紋標が一つであるから、このことはむしろ、「ロハイ」、つまりドラゴン・カードが絵札の仲間であることの証になる。それならば、そこに本来あるべき「一」の数札を補って不完全性を補正し、数札が「一」から「九」まできちんと揃った世界最高の中国カルタの遊技具の水準に高めてやろうと考えても不思議ではない。このように、「一」の数札は日本社会での考案と考えるとどこか不自然であるが、中国人社会の考案と考えるととても自然に納得できる。この点は、うんすんカルタの中国人社会起源説の一つの有力な論拠になると思う。