また、『時雨殿本3』には、百枚の絵札の各々に絵師の落款がある。江戸時代初期(1603~52)にはこういう例は少ない。こうした例の初出は、売り出し意欲の強かった江戸狩野派の狩野探幽や狩野安信が江戸時代前期(1652~1704)に制作した百人一首歌人絵であろうか。百枚の絵の画帖で各ページに落款を加えるのは上品とは言えない。多数の絵師の合作であって個々の図像の担当者を明示する必要がある場合であれば理解できるが、一人の絵師が完成させた場合は最初と最後のカードに落款を施すのが通例である。まるで一枚一枚を切り売りするつもりで制作したかのように見える『時雨殿本3』のうっとおしい落款は狩野探幽からの受け売りだろうか。ただし、『時雨殿本3』は、かるたの書や歌人画がここまで見てきたように長谷川宗圜の死去後の時代の様式であるから、江戸時代初期に宗圜本人が描いたという説明は信用しがたく、落款も自身で押捺したとは思えない。長谷川宗圜の死去後に何者かが残された印章を流用して、後代に制作された画帖にべたべた捺したと考える方が自然である。全体として、ミスが多く仕事の粗い乱暴な作品である。

なお、この『時雨殿本3』では、持統天皇の図像は三十六歌仙絵の斎宮女御の図像と類似している。これは「うたた寝」をしている図と説明されている。だが、かりそめにも持統天皇は天皇である。天皇が「春過ぎて‥‥」という格調高い和歌を詠んでいるのに、その歌人像が几帳の影でうたた寝をしている絵であるとはどういうことなのか。これでは持統天皇に対する尊崇の念は感じられないし、そもそも原図である三十六歌仙絵の斎宮女御はうたた寝をしているのではなく筆と硯を前にして恋の物思いに耽っている絵姿であるから二重に奇妙である。これはさて、そういう奇妙な図像の横滑りを意図的にさせたかったのか、それとも仕事が粗い工房であるから、同時期に制作していた他の女性歌人の歌人絵と取り違えたのか、検討してみる必要がある。

この画帖での奇妙なでき事を解明するカギは、ほぼ同時期に成立したと思われる女流絵師、清原雪信の画帖、『時雨殿本14』にある。この『時雨殿本14』では、女性歌人のうちで、持統天皇、赤染衛門、祐子内親王家紀伊、式子内親王の四名が揃って皇族扱いというにぎやかさである。赤染衛門と祐子内親王家紀伊が揃って皇族扱いになるのは元禄年間(1688~1704)以降の構図である。さらに興味深いのは、この画帖は、祐子内親王家紀伊に斎宮女御の図像を持ってくるという『素庵百人一首』以来の特徴をしっかりと引き継いでいることである。だが、そうすると持統天皇に扮しているのはだれかという疑問が生じてくる。斎宮女御のひとり二役であったのか。残念だがそうではなく、これは顔面を隠しているので式子内親王の図像である。そして式子内親王になっているのが顔面を曝しているので持統天皇の図像である。要するに『時雨殿本14』では持統天皇と式子内親王の図像が入れ替わっただけの単純なお話である。江戸時代前期(1652~1704)の長谷川派工房の乱雑な仕事振りが想像できる。

一方、『時雨殿本3』の場合は祐子内親王家紀伊が『像讃抄』に倣って平常な官女の姿に改められており、行き場のなくなった以前の祐子内親王家紀伊の歌人絵、つまり三十六歌仙の斎宮女御の歌仙絵が持統天皇に化けたという展開である。この辺の融通無碍な変身が長谷川派の画風なのであろうか。だが、この工作により、『時雨殿本3』の成立が延宝六年(一六七八)の『像讃抄』以降であることがはっきりする。

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