『時雨殿本3』の肝心の歌人画に移ると、まず各歌人の図像の下に配置されている上畳の縁の描写がとても奇妙で、「院」の名が付く上皇はすべて無畳で臣籍の者と同じ扱いである。「天皇」の名が付く三名では、天智天皇は茵(しとね)、持統天皇は上畳、光孝天皇は無畳であるこのように天皇、皇族をちぐはぐに扱った例は知られていない。長谷川派の絵師が様々な画帖や版本から図像を抜き取って手本に使った際に上畳の縁の描写で図像のレベルを揃える手順を踏んでいない。『時雨殿本3』の作者である絵師は、上畳の描き方がその歌人が皇族であるか臣下であるかの識別の表示であることを理解していない。朝廷の事情に暗い町絵師らしい知識不足に由来する模倣ミスを犯している。その絵師に何か意図があっての意図的な改変ということも考えられるが、そうだとしても光孝天皇まで臣籍降下させてしまっては、奇妙すぎて余人の理解できる範囲を超えている。
歌人図像も、絵は精緻であるが、歌人のポーズが左右逆になっているものが多い。また、陽成院、三條院、後鳥羽院、順徳院の四名の上皇が僧衣の姿であり、これはこの絵師に独自の奇妙な解釈のように見える。ただし、もう一人の上皇である崇徳院は僧体にされていないのであるから、「〇〇院」とあれば機械的に僧体にしたものではなさそうである。
四人の上皇については、上皇であることを知ったうえで僧体にしたのか、単に歌人名に「院」が付いている繧繝縁(うんげんべり)の者を誤解しただけなのかは分からない。俗っぽく考えれば、「院」と名指されて繧繝縁(うんげんべり)の上畳に座っている四名の人物の図像を見て、天皇制に関する基礎的な知識が欠けているままに「院」なのだからどこかの「何々院」という寺院の僧侶に過ぎないので、だから繧繝縁(うんげんべり)の上畳は身分不相応だと考えて外して、非礼を糺すつもりで公家姿を僧体に改めたのであろう。皮肉なことに、崇徳院はもともと皇族扱いから除外されていて繧繝縁(うんげんべり)の上畳が描かれていなかったので目にとまらず、僧体にされることなく公家姿のままで残されている。
当時の一流の絵師たちは、江戸狩野派にせよ、土佐派にせよ、これほど皇室について不勉強ではない。これほどの誤解をしている画帖を皇室や公家の家に収めることができたとは考えにくい。収めようとしても不完全な品物として突き返されたであろう。これは町絵師が町家に収める商品であったからこれでパスしたのだと判断されることになる。なにしろ不思議な画帖である。
なおこのほかに、『時雨殿本3』の歌人のポーズや着衣、持ち物の描写などは『尊圓百人一首』等の版本を手本にしており、特に官人の衣裳の彩色での黒衣とした者の一致が目立つ。したがって、『時雨殿本3』は、『尊圓百人一首』を手本の一冊としているのであるから同書発行の年以降のものであり、同書が刊行された江戸時代前期(1652~1704)よりも遡ることはあり得ない。『尊圓百人一首』よりも一時代古い『素庵百人一首』からさらに一時代古い、「百人一首がまだ類型化・典型化される前の混沌とした状態を残している貴重な資料」と鑑定するのは、不謹慎なたとえだが、王貞治というサインの入った野球のバットを入手して、「これは幕末の開国期に長崎でベースボールという新来の運動に、当時の指導者のワンという人物によって用いられた貴重な遺品であり、野球と類型化・典型化される前の混沌とした状態を残している貴重な資料である」と鑑定するようなもので、いくらコレクション自慢の手前味噌でもひどすぎる。
また、手本となった版本では参議篁、参議等、左京大夫道雅が武官姿であるが、『時雨殿本3』ではいずれも文官の姿であり、逆に壬生忠見は参議等と入れ替わって武官姿である。参議篁の和歌が書かれている紙に描かれているのは三十六歌仙絵の源信明の歌人図像である。ほかに、この信明の図像を百人一首絵で紀友則に充てることがあるが、この『時雨殿本3』では、紀友則の和歌が書かれている色紙に描かれている歌人絵の人物は、紀友則でも源信明でもなく、誰とも特定できない特徴のない公家の姿である。簡単に言えば、紀友則の姿として使う予定であった源信明の図像を参議篁で使ってしまったので、同じ姿を紀友則でも使うことをためらい、適当な公家らしい歌人像のカードを持ってきたという展開であろう。歌人像の描き方は乱雑である。また、参議等と壬生忠見の入れ替わりは、参議等の図像の上部に壬生忠見の和歌を書き、壬生忠見の図像の上部に参議等の和歌を書いた誤りと考えられる。絵師の描いた歌人像の絵のある用紙を受け取って上部に歌人名と和歌の本文を書き入れる書家もまた乱雑である。
要するに、『時雨殿本3』は『尊圓百人一首』を手本としながら混乱して成り立った元禄年間(1688~1704)かそれにごく近い時期の町絵師による急ぎ仕事の画帖であり、半世紀以上も以前の『素庵百人一首』の出版以前、江戸時代初期(1603~52)に、百人一首画帖というオリジナルな作品を世に問うた、知的な構想力と知見に満ちて時代を切り開いていったものとはとうてい言えないのである。裕福な町民が購入するように一般の市場向けに制作された品物であり、皇室や大名家のような、和歌の道や皇室の歴史に詳しい上流の家に収めるものではない。時雨殿による鑑定評価は、時期の判断でも、品物のレベルの評価でも、基本的に誤りである。これが観光施設としての時雨殿の宣伝文書で書かれている主張であれば笑ってすまされるが、上の注2のように百人一首画帖やかるたの発生史に関わる学術論文として述べられると笑ってばかりはいられないのである。学説として評定するならば、史料の読み違いに起因する根も葉もない誤説ということになる。