絵合せかるたのかるた札は散逸が激しいが、何点かの遺品がある。その中で特筆するべきなのは兵庫県芦屋市の滴翠美術館が蒐集した何点かのもっとも古く、美麗なかるた札である。また、大聖寺や宝鏡寺などの京都の門跡寺院にも、何点かのきわめて上品な、細密画法で描かれたかるた札が伝えられている。これらは、絵合せかるた史の研究上は最重要な物品史料群ということになる。ただ、従来は、これらの施設は必ずしも所蔵史料の公開に熱心ではなく、雑誌のかるた特集号などで一部分の画像が掲載されるほかは良く分からなかった。その中で、昭和五十三年(1978)に滴翠美術館が東京新宿の小田急百貨店で開催した「滴翠美術館名品展」は同館の所蔵品を展示し、昭和六十三年(1988)に朝日新聞社が東京銀座の松屋百貨店で開催した「王朝のあそび いにしえの雅びなせかい」展は門跡寺院や大名家の所蔵品を展示し、令和元年(2019)の東京六本木のサントリー美術館の「遊びの流儀 遊楽図の系譜」展は改めて滴翠美術館の所蔵品を中心に展示し、平成年間(1989~2019)を間に挟むように長時間を要したが、結果的に絵合せかるたの二大コレクションが公開されたことになり、このかるたの歴史上の全体像が見えてくる。この三回の展示会の目録は図合せかるた史研究の基本文献である。また、この期間に絵合せかるた類を紹介した書籍は何点かあるが、大牟田市立三池カルタ記念館(現大牟田市立三池カルタ・歴史資料館)の『図説カルタの世界』[1]と並木誠士『江戸の遊戯』[2]は、取材が丁寧で新出史料も含み有用である。
私がここで比較検討の対象としている絵合せかるた類を整理しておきたい。それは次のかるたである。多数は朝廷とその周辺の用度品であるが、大名家の奥向きに用意された武家向けのものも含まれる。この種のリストでは、制作の年代順に並べるのが研究上は幸便であるが、厳格な粉本主義の下で制作されたかるた札であり、また大事に保管されてきたために使用歴、古色も薄く、制作期の測定は容易ではない。展覧会の主催者も、展示品の年代を「17~18世紀」、つまり江戸時代初期(1603~52)、前期(1652~1704)から中期(1704~89)という広範囲に設定したり、時には「江戸時代」としたりすることもある。江戸時代の遊技用品を展示していて年代表示が江戸時代では、大根の展示会で、練馬大根も聖護院大根もすべて「大根」と表示されているようなもので歯がゆい。ここでは誤記を恐れて所蔵元順に並べて置くが、参考までに、所蔵者ないし目録編集者による年代表示を加えておく。またカッコ内の数字は札の縦、横の大きさのセンチ表示および典拠である。
大聖寺蔵品
舞楽(絵合せ)かるた(一〇・五×七・五)(『王朝のあそび』)
鳥(絵合せ)かるた(八・〇×五・五)(『王朝のあそび』)
花(絵合せ)かるた(八・五×五・七)(『王朝のあそび』)
宝鏡寺蔵品
源氏物語(歌絵合せ)かるた(サイズ不詳)(『王朝のあそび』)
名所絵合せかるた(サイズ不詳)(『王朝のあそび』)
鳥(合せ)かるた(サイズ不詳)(『王朝のあそび』)
花(合せ)かるた(サイズ不詳)(『王朝のあそび』)
靈鑑寺蔵品
花鳥(合せ)かるた(サイズ不詳)花・丸山応端筆、鳥・木下蘆洲筆、江戸後期以降(『王朝のあそび』)
石山寺蔵品
源氏物語歌絵合せかるた(サイズ不詳)17~18世紀(『江戸の遊戯』)
滴翠美術館蔵品
職人尽絵合せかるた(九・〇×五・八)貞享年間(『遊びの流儀』)
士農工商器財尽絵合せかるた(七・二×四・八)元禄年間(『遊びの流儀』)
野菜青物尽絵合せかるた(九・三×六・〇)文化文政年間頃(『遊びの流儀』)
宮廷調度絵合せかるた(一〇・六×七・五)鶴澤探真筆、幕末期(『遊びの流儀』)
貝源氏歌絵合せかるた(八・二×五・五)元禄年間頃(『滴翠名品展』)
古今集絵入歌かるた(八・二×五・五)元禄年間(『うんすんかるた』)
自讃歌絵合せかるた(八・五×五・四)土佐光祐筆、貞享年間(『うんすんかるた』)
自讃歌絵入歌かるた(八・二×五・五)元禄年間(『うんすんかるた』)
伊勢物語絵入歌かるた(八・八×六・〇)元禄年間(『うんすんかるた』)
伊勢物語絵入歌かるた(七・五×四・八)元禄年間(『うんすんかるた』)
源氏物語絵入歌かるた(八・二×五・五)元禄年間(『うんすんかるた』)
女房三十六歌仙絵入歌かるた(八・二×五・五)延寶年間頃(『うんすんかるた』)
三十六種貝合絵入歌かるた(七・五×五・五)元禄年間頃(『うんすんかるた』)
能狂言絵合せかるた(七・五×四・八)寛永年間(『うんすんかるた』)
女武者絵かるた(六・八×五・五)慶安年間頃(『うんすんかるた』)
唐武者絵かるた(七・九×五・五)元禄年間(『滴翠名品展』)
大名船印絵合せかるた(七・九×五・〇)延寶年間頃(『滴翠名品展』)
二十四孝絵合せかるた(八・二×五・五)延寶年間(『うんすんかるた』)
軍陣武具絵合せかるた(九・六×六・六)寛政年間頃(『うんすんかるた』)
御歴代史絵入かるた(九・三×六・六)天保年間頃(『うんすんかるた』)
三池カルタ・歴史資料館蔵品
狂言合せかるた 江戸前期(『図説カルタの世界』)
武者合せかるた 土佐光貞筆、江戸後期(『図説カルタの世界』)
鳥合わせかるた 江戸中期(『図説カルタの世界』)
花合せかるた 明治前期(『図説カルタの世界』)
細見美術館蔵品
伊勢物語(歌絵合せ)かるた(九・〇×六・〇)葛岡宣慶書、江戸前期(『遊びの流儀』)
鉄心斎文庫蔵品
伊勢物語(絵合せ)かるた(八・四×五・五)(『王朝のあそび』)
所蔵者不詳
源氏物語(歌絵合せ)かるた(七・八×五・三)(『王朝のあそび』)
舞楽(絵合せ)かるた(八・二×五・八)(『王朝のあそび』)
これらの史料から見えてくるのは、京都の朝廷や各地の大名家の奥とその周辺に伝来していた美麗な絵合せかるた群である。例えば、滴翠美術館蔵の「宮廷調度絵合せかるた」を見ると、これは収納箱の紋章から、幕末期(1854~67)に第十四代将軍、徳川家茂に降嫁した皇女和宮(かずのみや)、親子(ちかこ)内親王の所持していたものと推察される。絵師は鶴澤探真である。鶴澤は、京都の宮中繪所に出仕する絵師の家系の出身で、天保年間(1830~44)に生まれ、狩野派に学び、長じて宮中繪所の仕事もしている、幕末期(1854~67)から明治年間(1868~1912)にかけて活躍した土佐派のやまと絵の絵師である。鶴澤が命じられて和宮のために絵合せかるたを調整するのはごく当たり前のことである。また、宮中繪所は長である繪所預が土佐家の者であり、粉本主義であるので、そこに属する鶴澤がオリジナルに宮廷調度を構図したとは考えにくい。むしろ、鶴澤の周辺に手本となる宮廷調度絵合せかるたの図案ないしかるたそのものがあってそれを模倣したと想定する方が自然である。鶴澤は、朝廷に伝来し、過去に何回か制作されたことのある伝統の「調度絵合せかるた」に忠実に、それを和宮向けに新調したものと考えられる。つまり、ここに列挙したかるたの背後には、朝廷における相当数の類似のかるたが暗数として存在していたと推測されるのであり、いわばこの品物からこれまで隠されていた絵合せかるたの歴史が見えるのである。
「遊びの流儀 遊楽図の系譜」展の展示でこういう気持ちでこのかるたを見ると、江戸時代初期(1603~52)、「やまと絵」の土佐派の当主、土佐光則の描いた驚異的に細密な絵画の流れを受けて、その子光起が朝廷の繪所預職に就き、宮中に、「やまと絵」の細密画で制作される絵合せかるたの伝統が脈々と継承されて、幕末期(1854~67)に及んでいたことが分かる。そして、こういう視点を持って上記の絵合せかるた類のリストを見ると、朝廷と深い関係のあった門跡寺院に、これまた優れて細密な、上品な絵合せかるたが多数残されてきた理由も分かるのである。ただ、残念なことに京都の多くの寺院が火災に遭っており、由緒ある調度品は消失し、再建後の建物にあるものは、おおむね再建後の時期、多くは江戸時代後期(1789~1854)以降のものに改められている。
かるた史研究の立場からすると、この、宮中繪所の絵師たちが描いて制作した絵合せかるたの伝統は、従来まったく無視されていた一個のかるた史の流れとして認識できる。江戸時代のかるた文化は、江戸時代中期(1704~89)以降は、特に江戸の文化の影響が強く、元々はかるたの本場であった京都のかるた文化は江戸向けの商品が中心になり、もはや江戸文化に対抗する正統な文化の気概を失っていたように見える。そういう中でしかし、京都の朝廷に、ひっそりとしてではあるが、貝覆の伝統を継承する絵合せかるたの遊技が残り、女性皇族が、門跡寺院に入った後もその遊技に親しみ、それに用いる美麗なかるた札が繪所で土佐派の「やまと絵」として調製されていた史実がある。このことを突き止めた時、それは「もう一つのかるた史」の発見とでも呼べるような研究成果となった。今となってはあまりに遅く、文字上でしか伝えられないが、研究の起点を設定した山口吉郎兵衛に対して、この領域に残された課題に初めて踏み込めたことを報告し、基礎となった蒐集史料の提供への謝意を告げたい。このことに触れるのは今回が初めてであるが、従来のかるた史研究が歴史の暗闇の中に残したままで沈黙していた絵合せかるたの歴史の一端を明らかにできたことを誇りに思う。