(二)麻雀古牌の蒐集

中国各地の「馬吊紙牌」
中国各地の「馬吊紙牌」

偶然見つけたところから始まった紙牌探しの調査過程で、私の麻雀骨牌への関心も拡大した。麻雀骨牌は、一八六〇年代に中国中部、長江の流域で「馬吊紙牌」から発展した遊技具であるので、麻雀骨牌の歴史は、私にとっては研究対象である「紙牌」、カルタの亜種という位置付けで強い関心があった。当時、一九八〇年代、九〇年代には、中国に行って珍しい古牌を見つけると購入していたし、日本国内でも古い時期の日本のカルタ、かるたの実物を求めて、東京と京都を中心に、各地の骨董市に出入りしていたが、そこでたまたま珍しい麻雀骨牌を見つけると、訳も分からないのに買い求めていた。  

だが、麻雀の歴史を知ろうとすると、迷路に迷い込むことになる。日本では、多くの先人がこの主題で語っているが、どれを読んでも論拠が薄弱で、中国にある多くの風説のうちのどれかに依拠して物語っているだけという著作が多い。麻雀はもともと「馬吊紙牌」の一種、「麻雀紙牌」を使う遊技で、庶民の娯楽遊技として誕生したものであるから、それを記録して後世に残そうとする人もなく、稀に「紙牌」のコレクターがあっても、その人が亡くなると、コレクションの学術的な史料価値を認めない遺族はそれをさっさと片付けて棄ててしまうから、後世には何も伝わらない。その結果、古い時期の「麻雀紙牌」は実物も記録も残っていない。「麻雀紙牌」の後を引き継いだ「麻雀骨牌」も同様で、実物も記録もほとんど残っていない。したがって、麻雀の歴史はまだわずか二百年にも満たない近くて短い過去なのに、その研究はとても困難である。  

今にして思えば、私は、日本と中国で、骨董市の露店で無造作に投げ売りされている「麻雀骨牌」の「古牌」を買い集めて解析し物品史料として活用することで、文献史料に偏向し過ぎていた麻雀史研究の隘路を突破していたのだが、研究の当初からそんな小難しいことは考えておらず、ほとんど単なる物好きのコレクターでしかなかった。ただ、繰り返すが、私はたった一人のコレクターであったようだ。東京の骨董市では、私が買わなかった麻雀古牌は売れずに残って、次の回の骨董市でもそのままに売られており、私のほかには麻雀古牌に関心を持っている人はいないのだと分かり、妙な責任感から結局は購入していたが、自分は走るコースを間違えて誤解した道を一人で走っているマラソンランナーのようなものではないかと不安で心寂しい思いもあった。  

上方屋牌
上方屋牌

ただ、結果的には、他にコレクターがいないのは競争相手がいないということでプラスの面もあり、日本では、大正時代に東京銀座の上方屋の支店、「下方屋」が林茂光の『赤本』と一緒に発売した最初期の中国からの輸入品の麻雀牌であるとか、大正時代の末期から昭和初期に大阪の大日本セルロイド社が制作したセルロイド製の対米輸出品の麻雀牌、通称国産ゼロ号牌であるとか、書籍の出版社である文藝春秋社が制作販売した、日本最初の国産一号牌であるとか、その後ほとんど見かけない、史料価値の高い麻雀牌を無競争で入手することもできた。友人のカルタのコレクターが大阪の骨董市で入手した中国の古牌、辛亥革命後に北京で開催された「北京善後會議」に参加した地方軍閥の人が特注で制作させて愛用したような印象のある大型の麻雀骨牌を他の紙製のカルタと交換で入手できたのもこの頃であった。そのうちに、露店の古物商の主人たちも私の顔を憶えて、私むけの品物を並べるようになっていた。中国でも、北京市や上海市の骨董市にはよく通っていたし、旅行で訪れた各地の骨董店にも顔を出した。

大日本セルロイド牌
大日本セルロイド牌
文藝春秋牌
文藝春秋牌
北京善後会議牌
北京善後会議牌
「木の葉」型の「索子」
「木の葉」型の「索子」
おすすめの記事