(四)「一索進化論」の麻雀界へのデビュー 

私は、以前から、名古屋市在住の麻雀史研究者で、ウェブサイト「麻雀祭都」の主宰者、浅見了と旧知の仲であった。浅見は長年に及ぶ研究で中日両国の麻雀史の文献に通暁しており、その学識は深く、私ははるかに及ばなかった。また、浅見は、私の知り得た範囲ではほとんど唯一の、「麻雀骨牌」を歴史史料として重視する蒐集家であった。

木の葉型の索子
木の葉型の索子

そこで、一九九七年、当時の「遊戯史学会」の研究会後の飲み会の席で、浅見に、私が顧問を勤める福岡県大牟田市立の「三池カルタ記念館」で、東アジアのカルタの展示会を企画しており、そこに私の保有する中国の「紙牌」と「麻雀骨牌」のコレクションを出品しようと計画していることを話し、その際に、「一索進化論」を使って解説しようと思っていることも話した。浅見は、自分はこれまで「木の葉」型の「索子」があると意識したことがなかったのでとても驚いたと語り、私のコレクションをぜひ見たいと強い関心を示したので、早速、数日後に、当時私が勤務していた大学の小会議室を一日借り切って、私のコレクションを並べて、浅見了一人のための展示研究会を開催した。浅見はそのために名古屋から上京してくれた。  

一索進化論
一索進化論

浅見が凄いのは事態の本質を鋭く見抜くことであり、私の示した展示品に驚愕していたが二人で一日中議論に耽り、数日後に、この体験を、麻雀書籍と雑誌の代表的な発行元、竹書房の野口恭一郎会長と、麻雀業界誌の銀星出版社発行の『月刊プロ麻雀』誌の編集部に伝えた。すると、同誌は早速に麻雀牌史の寄稿を求めてきて、五回連載で掲載することになった。実際には連載は好評につき延長ということで十一回に及んだ。当時、私は、麻雀業界の人とは没交渉であり、まったくの無名人であったが、この年に、「麻雀のルーツを探れ!」という連載で「一索進化論」を唱えてこの業界にデビューすることができたのである。雑誌編集部の素早い動きと誌面の提供には感謝した。  

一方、竹書房会長の野口恭一郎も素早くて、同年四月から六月にかけて「三池カルタ記念館」で開催された「アジアの遊び・ふしぎのカルタ展」を見に、多忙の身であるのに自身で大牟田市まで行き、展示を見て、これなら麻雀博物館ができると確信して帰京し、直ちに私を呼んで、竹書房で博物館を設立するので全面的に指導していただきたいと頭を下げた。この後、野口は博物館の設立準備を強力に指揮し、博物館は千葉県夷隅町(現在はいすみ市)の竹書房の施設を活用して、一九九九年にオープンした。これが、世界中の人々を驚かせた、世界唯一の、考えられてきた水準をはるかに超えた前代未聞の素晴らしい博物館施設であり、日本中を驚かせた。当然であるが、ここで麻雀史を学ぼうとする人も多く、中国や欧米からの観覧者も現れ、特に中国は、この博物館の壮挙はいくら絶賛しても足りないが、こういう施設が中国ではなく日本にできたことには、遊技発祥の国として複雑な思いもあるとやや残念そうであった。 

こうした野口の熱意と指導力によってでき上った麻雀博物館の麻雀古牌のコレクションは、私が個人で集めていたものは全て寄贈して合体させたのだが、個人のコレクションの時期のレベルなどはるかに超えて質量ともに充実し、麻雀史研究における空前の物品史料群となった。集まった麻雀古牌たちは、博物館の収蔵庫でもうべちゃくちゃとはてしなく自分を語るようになり、従来の文献史学にとどまっていた絵空事だらけの麻雀史研究の限界を超えた、文献史料と物品史料に支えられた実証的な麻雀史研究が構築できるようになった。  

もう一人立ち上がりが素早かったのが、日本健康麻将協会の会長、田辺恵三である。田辺は、元来は東京都心のマージャン店の経営者であったが、麻雀について回る賭博のイメージを払拭して、「賭けない。飲まない。吸わない。」健全な頭脳スポーツの遊技としての広まりを期待して、同じような考えであったマージャン店経営者の田嶋智裕やプロ麻雀士の井出洋介と連携して「日本健康麻将協会」を立ち上げて活動を進めていた。この活動の中で田辺が注目したのは、中国にもある頭脳スポーツという考え方の人々との連携であり、一九九五年以降、日本と中国で繰り返し両国の選手団による競技会を開催し、また、中国政府に対しても、健康な麻将遊戯の公認を求めるなど、麻雀を通じての日中友好の推進に努めていた。一九九七年は、そうした田辺らの努力が実るかどうかの微妙な時期であったが、田辺は、中国北京市の北京飯店の一室を借り切って、そこで私の麻雀古牌のコレクションを展示して中国政府の有力者に見せて、正しい麻雀史の認識をもってもらおうという作戦を考えて、まだ事態がよく分かっていない私に協力を求めてきた。 

北京飯店での展示会は、実はこれが中国における麻雀骨牌の学術的な展示会としては歴史上初めての試みであり、それを中国国内の施設や団体ではなく、日本の「健康麻将協会」(田辺恵三会長)が挙行したのであるから、様々な波紋を呼び、企画としては大成功で、とくに国家体育総局に強い影響力のある最高顧問で、延安当時から毛沢東の親しい友人で共にマージャンを楽しんだという長老が観覧に来たので、説明係の私は、「こうして麻雀牌が語る麻雀の歴史を思うと、日々の苦しい労働と搾取に苦しみながらも、中国の人民が、一日の労働を終えて夕食後のわずかな自由時間に卓を囲み、少しの慰安を得て仕事の疲れを癒し、翌日の労働への気力を養った、そんな人民の血と汗と涙が見えてくる。麻雀の遊技は人民の宝だ」といったところ、長老は一言「好(ハオ)」と言い、お供をしていた体育総局の幹部連中の緊張しまくっていた表情が一気に緩んだ。この後、中国政府はこうした趣旨と、頭脳スポーツとして認知症の予防に役立つという効能戸を合せ考えて健康麻雀を公認し、日中間での麻雀遊技の交流にも理解を示すようになったのであるから、トップから落とすという田辺戦略は大成功ということであった。私も、私のコレクションが、健康麻雀の社会的な認知度を高めるという有意義なことに活用されたのでとても嬉しかった。 

当時、私は、カルタ文化史で学んできた欧米の研究手法を麻雀の歴史にも応用していた。欧米のカルタ史研究では、文献史料への過剰な依拠は危険であり、常に、物品史料と伝承史料で是正するべきであることが強調され、研究者が半ばプレイヤーあるいはコレクターとなって現場に足を運んで調査、研究するのが常態であった。私は、終始一貫、この立場だけは守ってきた。それまでの麻雀史がわずかな文献情報の受け売りに終始していたことは明らかであり、その成果物の精粗には大きな差があるが、いずれにも共通して文献史学の限界もまた明らかであった。そこで、私の成しえたことは、文献史学で収入を得ている大学や研究機関の専門家からほど遠い素人史学であり、雑駁なものであるが、それでも、曖昧な記述の多い文献史料も無視せずに読破したうえで、それ以上に、信頼性の高い物品史料を活用して歴史を語るという研究手法の革新を成し遂げることであった。  

それを可能にしたのは、巨費を投じて、世界中から多数の麻雀史文献を蒐集し、また、中国の古物店での麻雀古牌の価格が数倍に跳ね上がるほどに集中して膨大な麻雀骨牌のコレクションを作り上げた麻雀博物館の試みがあったればこそである。野口は主としてアメリカで良き史料の発掘、入手に努力した。私も、日中両国で優れた史料を探し求めるとともに、東南アジアやヨーロッパの諸国にも出かけて史料探しを行った。文献は、世に隠れていた鈴木知志の日本麻雀史に関わるほぼ完璧な文献コレクションと、野口が買い求めた巨大な欧米文献コレクションの合体により、他の追随を許さない文献史料群が形成された。私の現代中国文献コレクションも、中国最大の北京図書館も含めて世界中でどこにも存在しない水準に達していた。この麻雀博物館の麻雀牌と文献史料という宝庫を活用して知見を得た研究者が、私もそのうちの一人だと思うが、提唱した新しい発見の報告は、今でもなお事実に支えられた重みがあり、麻雀史学の質的転換と発展に何がしかの貢献を果たしたと思う。  

こういう経過で、既成の麻雀業界にはまったく無縁であった私の「一索進化論」は、浅見了に告知した時からわずか一、二カ月で、野口恭一郎、田辺恵三を軸にして麻雀の業界にその存在を認められるようになった。多くの関係者は、なお半信半疑であったと思うが、なまじ雑念の多い中途半端な専門研究者でなかったのがよかったのだろうか、多くの人が「一索進化論」を素直に認めてくれた。この後、多くの人が「一索」の図柄を論じて「青蚨(チンフー)」という言葉に触れているのを知って、問題提起が受け止められていることに感謝した。  

遊戯史学会訪中団
遊戯史学会訪中団

また、この年の夏に、増川宏一を中心とする「遊戯史学会」のメンバーとともに中国重慶市から上海市までの長江下りの船旅を行い、沿岸の町々で「錢牌」などの紙牌を探し求め、見つけると購入して船中で旅行仲間と遊技の真似事を楽しんだのもいい思い出になっている。私は上海市での調査団解散後も中国に残って、浙江省、福建省の空気を吸いに行った。海岸沿いの未舗装の道を、五、六人しか乗客が乗れない長距離運行のマイクロバスで延々と走る旅だったので疲れたが、これだけ距離が慣れていては、福建省の紙牌と浙江省のそれとの違いが生じるのも無理がないなと、中国の広さを実感できた。 

一六世紀後半、この地域には数百、数千人の日本人がいたようである。特に、戦国時代の戦の負け組の侍であろうか、日本を脱出して中国沿岸の都市で傭兵として雇用され、戦慣れして強かったのと雇い主に忠実で裏切りがなかったので評判が良かったようである。また、日本人の遊女も相当に進出していたようである。遠く故郷を離れて、この広漠とした地域で生きていた彼ら、彼女らはなにを思っていたのであろうか、あるいは手近にあった「馬吊紙牌」でひと時の慰安を得ていたのだろうか。土埃に呑みこまれながら、そんな思いに耽っていた。  

このような奇跡的な出会いは浅見了の直感と行動力から始まっている。今はすでに故人になっているが、浅見への感謝は深い。そんな思いがあるので、「麻雀骨牌」研究史の序章のつもりで書き始めた本章は、浅見との思い出を軸に、いつの間にか「一索進化論」序説になってしまった。長文になってしまった。この辺で切り上げて、いざや、麻雀古牌に自身の歴史を語ってもらおうではないか。  

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