(五)「武蔵野」の終焉

こうして、明治中期(1887~1902)、騒々しい「八八花札」ブームのさなかに、江戸時代中期後半の明和、安永、天明年間(1764~89)に誕生したであろう木版の花合せかるた、「武蔵野」は終りの時を迎えた。この終期が示せるように、このホームページでは、花札のコレクション画像の中に、京都のかるた屋、田中玉水堂や臼井日月堂などが制作した最終版の「武蔵野」を二点掲載した。

 「武蔵野」の終焉というとき、二つの意味がある。まず、かるた札の図像、デザインの消滅である。「武蔵野」を明治前期(1868~87)の「関東花」、中期(1887~1902)の「八八花」と分かつ図像上の決定的なポイントを、①カス札上に和歌の記載があること、②柳の札に雷雨の中を走る男があること、の二点に置いてみれば、そうした図像の花札がこの時期に消滅したことは明白である。玉田兄弟商会や大石天狗堂などが制作した対米輸出用の大型花札は、明治三十年代(1897~2006)に入ってもなお一部で製造されていたが、特殊な事情での例外であった。

 ただ、すでに述べたように、この時期に、地方のカルタ屋は「八八花札」への転換がうまくできず、従来の「武蔵野」タイプでその地方で通用していた「地方花札」を製造し続けた末に、明治三十五年(2002)の骨牌税法の施行により廃業し、それの製造を京都のカルタ屋が引き継いだので、「武蔵野」の図像は、「越後花」等の「地方花札」の図柄として残った。その意味では、「武蔵野」は「地方花札」に転落することで今日まで辛うじて生き延びたことになる。

 一方、「武蔵野」という呼称の消滅の時期はもっと早い。木版の「花合せかるた」が最初に売り出されたころには、創業家と目される京都の井上山城が、主人が「家春」であった江戸時代中期(1704~89)であるが、木箱の上面に貼られた表題の紙片に「武蔵野」とあるように、手描きの「花合せ」かるたと差別化してこのように呼ばれて売り出されていたのであるが、文政二年(1819)の大坂の記録ではすでに「當春 花合停止 武蔵野ともいふ歌留多也」であって、「花合」の方が正規の呼称になっており、「武蔵野」は「ともいふ」という異称扱いである。そして、その後、天保年間(1830~44)の江戸奉行所の禁令や、幕末期(1854~68)の京都の町触れなどでも、「花合」や「花カルタ」が主であって「武蔵野」と呼ばれた例はない。明治前期(1868~87)でも事情は同様である。したがって、「武蔵野」という呼称は文化文政期(1804~30)までと理解しておきたい。

 ちなみに「花合せ」が「花札」になった時期について述べておきたい。一般にカルタでは、それが賭博に用いられるようになると、取締り当局から「かるた」ではなく「札」と呼ばれるようになる。江戸時代に、奉行所から発祥して「かぶカルタ」が「株札」になり、「めくりカルタ」が「めくり札」になったように。「札」は悪いものというニュアンスのある蔑称である。「花合せ」の場合は、江戸時代は主として女性や子どもの家庭的な遊技具であったのでこれを「花札」と呼んだ例はほとんどなく、明治前期(1868~87)に、まずは警察当局から違法な博奕に用いられる「花札」と呼ばれるようになり、それが定着して、明治後期(1902~2012)以降は主として「花札」である。制作しているカルタ屋も、遊技法の解説書も、「花札」と呼んだ。まさに、横山長八が望んだような扱いであり、中学校、高等学校の修学旅行に持って行って良い物はトランプ、でも花札は禁止という事態になった。

 こうして花札は、文化史的な意味合いでの近代を迎えた。だがそこには、明治十年代(1877~86)末期の解禁期には想像もしていなかった激動の運命が待ち受けていた。それについては別個の説明が必要である。後継の文章に残したい。