私は、こういうかるた、カルタの世界の動きを、自由花札の時代と呼んでいるが、その趣旨をもう少し説明しておきたい。

この言葉は、1910~20年代の中国で唱えられた「自由麻雀の時代」のもじりである。この「自由麻雀」について、かつて私は千葉県いすみ市に開設された「麻雀博物館」の会報[1]に一文を寄せたことがある。今日では入手しにくい文献なのでかいつまんで紹介しておこう。

バブコック「自由麻雀」牌
バブコック「自由麻雀」牌

麻雀を世界規模の遊技にした立役者は、この時代に中国福建省に滞在した、アメリカの石油会社の社員、ジョセフ・P・バブコックである。彼がアメリカに輸出した麻雀牌の中に、四枚の「一筒」牌の各々で、筒子の中央に「自」「由」「麻」「雀」と彫り込まれたものがある。たまたまその牌のうちのひとつがモデルになってオランダでトランプ状の麻雀紙牌が作られて、それが大ヒットして欧米各国で流行したので、「自由麻雀」牌はさらに広く普及した。ただバブコックに特にこれを広めようとする意図はなく、彼がアメリカ向けに輸出した麻雀牌の中にたまたまこのデザインのものがあって拡散したということであろう。

この場合、「自由」という言葉には、三つの意味が考えられる。一つは、自由に麻雀をしたいということである。だが、この時代の中国では麻雀は禁止されていなかったのであるから、この理解は成り立たない。二番目は、政治スローガンとしての「自由」であり、自由のために闘うぞ、という気概を現した牌ということになる。この年代には、こういう政治的な意味を帯びた麻雀牌があったことは事実であるが、すでに辛亥革命から十年以上たっており、いまさら自由を主張する時代ではなかったであろう。そうすると、残るのは、麻雀のスタイルが自由であること、特に、麻雀牌の図柄が自由であるということである。1910~20年代の中国には、図柄を自分の好みで自由に変えてもよいという、オーダーメイドの麻雀牌があったのである。平成年間(1989~2019)の花札の事情に似ている

ここで思い出されるのが、アメリカの民族学者、スチュワート・キューリンが1909年に上海市の麻雀牌製造者を訪れた時の記録である。キューリンはここで、店の者からこう言われたと記録している。「この骨牌には、決まった標準的な形があるのではなく、客の注文であるならばどのようなものでも対応できるようにしている」。なるほど、これは自由麻雀であると思う。

麻雀の歴史には、「自由麻雀の時代」と呼べるような時期があった。これが、私が当時広く発信した麻雀史を解読する概念である。そこには、新しい図柄の麻雀牌が現れ、自由な時代、自由な精神、自由な芸術が映し出されている。

ここで話題をいったんは別の世界に飛ばさせていただく。千葉県いすみ市にあった麻雀博物館には、ミステリアスな麻雀牌がいくつもあって、探求心を刺戟された。そこに、「万子」の牌が「品子」になっている大ぶりの牛骨製の牌がいくつかあった。「一万」が「一品」、「三万」が「三品」である。こういう「品子」牌は、福建省で今でも使われていて、福建出身の華僑の多いベトナムやタイなどでも売っている。もちろん、麻雀博物館にはそういう現代の東南アジアの麻雀牌も展示されていた。大ぶりのものは、福建麻雀牌の古い形であるように思われる。

この「品子」牌は曲者で、変わった特徴が多い。展示品のうちのひとつは、1925年の「北京善後会議」を記念した「北京善後会議」牌とでも呼ぶべきものである。文字牌が、三元牌が「北」「京」「白」牌、風牌が「善」「後」「會」「議」牌になっている。もう一つは、当時の有名な京劇俳優である梅蘭芳の特注による「梅蘭芳」牌で、文字牌は、三元牌が「演」「劇」「白」牌、風牌が「遊」「龍」「戯」「鳳」である。三つ目は、「萬里」牌と呼ぼうか、三元牌が「萬」「里」「白」牌で、風牌が「青」「山」「白」(白の文字が彫り込まれたもの)「雲」牌で、いかにもゆったりとした風景を表している。このほかに、南宋初期の忠誠の武将「岳飛」を題材にした牌で、文字牌は、三元牌が「岳」「飛」「白」牌で、風牌が「尽」「忠」「保」「国」のものもある。「岳飛」牌と呼びたい。「晩凉(凉は涼の俗字)」牌、三元牌が「晩」「凉」「白」牌で、風牌は「江」「村」「斜」「影」のものもある。同じような時代、同じような大きさの「品子」牌であるのに、三元牌が「白」「發」「中」牌で、風牌が「東」「南」「西」「北」牌と、普通の文字牌のままであるものもある。

「北京善後会議」牌
「北京善後会議」牌
梅蘭芳牌
梅蘭芳牌

これらの牌は大変に似かよっている。収納箱がボックス型であること、牌が大ぶりであること、「品子」を使っていること、「一索」牌の鳥が華中の麻雀牌に定型的なツバメであること、花牌が八枚あることなど、いくつもの共通の特徴がある。圧巻なのは、堂々とした文字や図柄の彫り方がそっくりであることと、花牌は各々の牌でテーマに合わせて図柄が違うが彫り方はそっくり同じで、使われている顔料の色調も同じであることであろう。彫りが全体にすばらしく上手であることもあって、文字牌と花牌は、同一の名人彫り師の制作したものといってもよいようである。

ただし、これらの牌では、索子や筒子の図柄が一致しない。この部分には、名人でなくとも彫ることのできる平凡なレベルの牌が使われている。また、四枚の一筒牌の円の中心に制作者の名前が掘り込まれている。「梅蘭芳」牌では「永」「成」「康」「造」であり、「北京善後会議」牌では「朱」「恒」「生」(一枚欠落。「造」であろう。)である。「萬里」牌では、使用によって図柄が摩滅していて判読が難しいが、四枚の各々に文字があった痕跡がある。「尽忠保国」牌の場合は、ホームページにその情報が載っていないので分からないので問い合わせたところ、所蔵者の浅見了から、特に文字は彫りこまれていないという回答があった。このように、制作者の名前が違うのであるから、複数の制作者によって彫られたものと考えたい。

このように、複数の製造者の牌があって、お客の注文であろうか、特注品の特注の牌だけが名人クラスのすばらしい彫りであるとすると、想像できるのは、上海や蘇州の麻雀牌製造業者の間に自由麻雀のオーダーを受ける風潮があり、注文が来ると、特注牌だけ、何も彫られていない白牌の状態で名人彫り師に届けて彫ってもらう、という家内生産方式の制作方法である。文字牌と花牌については一人の名人彫り師が、複数の麻雀屋の注文に応じて彫ったのではないかと想像されるのである。

どうやら、この時期には、こういう変わり牌作りが盛んだったようである。バブコックがいうところの「自由麻雀」、キューリンが言うところの「客の注文に応じる麻雀牌」とは、辛亥革命による圧制的な清朝の崩壊が生んだ自由な時代精神のあり方と、増大する需要を追い風にして技術を向上させて、彫りの冴えを示すようになった麻雀の彫り師たちの自由な芸術精神が交錯して生まれた、力強く、美しい、個性ある麻雀牌の傑作であったように思われる。

平成年間(1989~2019)の花札、賭博系カルタの事情はまさにこれに似通っていて、トランプ類税法に依る無免許制作の犯罪視が解けて自由に制作することができるようになった好機を生かして、自由な発想の花札、カルタ札が溢れた。さらに、リアルな花札を制作するのではなく、ネットで自作の花札図柄を開示する者も増えた。そこに既成の遊技ではありえない新しい自由な楽しみ方が加えられたのである。まさに何でもありの自由花札の時代が到来している。


[1] 江橋崇「麻雀牌が世界に旅立つ瞬間 榛原牌の発見と『自由麻雀』の時代」『麻雀博物館会報』2006年夏季号、同博物館、平成十八年、三頁。

おすすめの記事