私は、1984年の年末に、そうするほどの実力もないのに、ある遊戯具の展示会のかるた部門の監修、構成を引き受けて、展示の目玉にと思い、以前から眼を付けていた、静岡市内の小さな古物店で、高価なので売れ残っていた、江戸時代前期に京都・宮中繪所の土佐派の絵師が歌人画を描いて、宴席での余興だと思いますが、二二十名の公家が一人五枚ずつ分担して書をしたためた「百人一首歌かるた」、収納箱上の記載では「諸卿寄合書かるた」を購入して研究しました。ここでコレクション自慢をしても始まらないのですが、江戸時代、宮中繪所の絵師が描いた「かるた」札はこれ以外にはまだ発見されていません。また、その画像はとても優雅、上品で、町絵師が描いた「かるた」絵とはレベルが違います。2019年に東京のサントリー美術館で「遊びの流儀」展が開催され、滴翠美術館蔵の幕末期、和宮降嫁の際のお道具と推測される当時の繪所絵師、鶴澤探真画の「宮廷調度絵合かるた」が展示され、改めて二百年以上も継承されてきた「繪所かるた」の優雅さが印象的でしたが、「諸卿寄合書かるた」は、江戸時代前期に繪所で制作された「百人一首歌かるた」としては他に類例のない美麗な稀品です。
そこで、張り切って調査を始めたのですが、気が付くと「崇徳院」の絵札で、歌人像の図像に上皇の場合はつくはずの「繧繝縁(うんげんべり)」の上畳がありません。第一印象は絵師のミスでしたが、念のために、同時代の他の「かるた」と比較してみました。当時は、江戸時代初期、前期の「百人一首歌かるた」としてデータが一般に公開されていて学術上の調査、研究の参考に使えたものは、滴翠美術館蔵の「道勝法親王筆かるた」と白洲正子さん所蔵の「淨行院様御遺物かるた」の二点しかありませんでしたので、これらと比較したのですが、驚いたことに、両方とも、崇徳院の札には繧繝縁の畳はありませんでした。慌てて、手元にある古書の『ゑ入尊圓百人一首』を見てもそこにもありません。つまり、江戸時代初期、前期の「百人一首歌かるた」では、崇徳院は上皇の扱いを受けていなかったのです。
この問題は、「かるた」に固有の問題であるだけでなく、江戸時代初期、前期の『百人一首』という歌集そのものの普及史における問題点でもあるのですが、それまでの「百人一首」の解説本にはまったく載っていません。私は初心者ですから見落としがあるのだろうと色々調べましたが答えが見つかりません。そこで格太郎さんにご相談したところ、「百人一首」の歌人図付きの書物は江戸時代初期の『角倉素庵筆百人一首』が嚆矢だからご覧になったらいかがですかと教えられ、東京、駒込の「東洋文庫」に通って初めて見知ったという、研究者としてはピヨピヨの情けない思い出もございます。ただ同書では、天皇と皇族は茵(しとね)に座する姿に描かれ、公家や僧侶、宮中の女性その他の歌人は床に直接座る姿に描かれて区別されていましたが、そこでも崇徳院の図像には茵がありません。つまり、江戸時代初期、前期の物品史料はことごとくが崇徳院に上皇という地位を認めていないという差別的な扱いであったのです。
この時、私は、自分がとんでもない扉を開いてしまったことに気づきました。私は、慌てて、百首、二百枚のかるた札を逐一調べる全量調査をしました。若かったので馬力だけはあったのです。「道勝法親王筆かるた」、「浄行院かるた」、「諸卿寄合書かるた」に、私が骨董市や古書展で発見して保存した数点の「かるた」、それ等に加えて現所蔵者の有吉保日本大学教授によって寛文年間(1661~73)の作と鑑定された近衛家陽明文庫旧蔵の「かるた」の復刻版も参照しました。版本では、『角倉素庵筆百人一首』、『尊圓筆百人一首』に加えて、文字だけ記載されたものですが『本阿彌光悦筆百人一首』も参考にしました。私は、「シルビア・マン学派」ですから、何よりも物品史料の可能な限り網羅的な調査、研究を重視します。夜遅く、百人の歌人の一人一人について、机上にその人物のかるた札や版本を全部並べて見比べて疑問点が出れば参考文献に当たる。この孤独な作業を続けました。
そうしましたところ、目の前に奇怪な世界が見えてきました。まず、江戸時代初期、前期の「古型百人一首歌かるた」(以下、「古型」)と現在使われている「小倉百人一首かるた」(以下、「標準型」)では、数名の歌人名の表記が違いました。「標準型」では「權中納言敦忠」が、「古型」では「中納言敦忠」でした。「大僧正行尊」が「前大僧正行尊」でした。「權中納言匡房」が「前中納言匡房」でした。「従二位家隆」が「正三位家隆」でした。位階にうるさい宮廷人にとっては大事件です。また、和歌本文では、「標準型」の「三條院」では「心にもあらで憂き世にながらへば」が「古型」では「心にもあらでこの世にながらへば」でした。「源俊頼朝臣」の「憂かりける人をはつせの山おろし」が「憂かりける人をはつせの山颪(おろし)よ」でした。「標準型」の「俊恵法師」の和歌「夜もすがら物思ふころは明けやらで」は、「古型」では「夜もすがら物思ふころは明けやらぬ」でした。細かいようですが、たとえば最後の和歌の場合、「明けやらで」であれば「物思ふころは明けやらで」で切れる「三句切」の和歌と理解されるのですが、「明けやらぬ」ですと「明けやらぬ閨(ねや)」と繋がりますので、和歌の解釈が微妙に変わってしまいます。このような事例を発見すると、それらは偶発的な事故、欠陥商品ではなく、定型的な表記の違いであることが理解できます。この時私は、従来の国文学史の研究者がたまたま「かるた」札という物品史料を一組だけ見て、そこにある見慣れない記載を、書家のミス、製造事故だとやり過ごしていた、その「ミス」にこそ、その物品史料の成立に関する史実、真実の姿が表現されていることを発見できたのです。
それに版本と「かるた」札を並べてみると、歌人像のポーズが版本のコピーであることが分かります。この点も、古い時期の「かるた」史の研究では、漠然と歌人像を描いた巻子をモデルに絵師が自分の才覚で描いたと考えられていたのですが、何組もの「かるた」札を比較検討してみると、歌人のポーズ、持ち具などはそっくり同じで、共通した見本帖を基にして描いていたことが分かります。そして、「かるた」の場合は、歌人たちの持ち具、公家では杓(しゃく)、僧侶では数珠、武士では刀や弓矢が描き忘れられているものも多く、巻子の「かるた」絵を版本に写したのではなく、その逆で、版本をモデルに「かるた」絵を描く際に描き忘れがあったことが分かります。そのほかに、「かるた」札に固有の問題ですが、歌人甲の絵札に歌人乙の和歌が書かれていて、逆に乙の絵札に甲の和歌が書かれていたりします。これは「かるた」札に固有の問題のように見えますが、版本でも、たとえば『尊圓百人一首』は『素庵筆百人一首』の歌人像から歌人のポーズや持ち具を模倣していますが、どういうわけか「在原業平朝臣」と「参議等」の図像を入れ違ってしまいました。二人は共に太刀を帯び、弓矢を持つ武人姿なのですが、『素庵本』では「在原業平」は右を向いて右手であごひげに触れている姿なのに、『尊圓本』では左を向き右手は膝に下しています。一方「参議等」は逆に、『素庵本』では右を向いて右手は下げているのに、『尊圓本』では右を向いて右手であごひげに触れています。要するに、二人は入れ違ってしまったのです。この種の入れ違いは他の歌人の場合にも散見されます。
また、書家の筆が滑って、裏紙を表面に折り返した縁(へり)の個所に及んでいることがあります。これらは、「かるた」屋での「かるた」札の制作過程を示していまして、①まず絵師に歌人像を描かせて、②芯紙と貼り合わせ、③「かるた」札の大きさに切断し、④少し大きな裏紙と貼り合わせて、⑤はみ出した裏紙を折り曲げて表紙の縁に貼る「縁返し(へりかえし)」を行ってから、⑥書家が筆をとるという当時の制作工程を知ることのできる貴重な史料にもなります。おかしいのは同じ歌人像が二枚に登場する「かるた」でして、和歌は異なりますので、九十九人で百首ということになります。一つのかるた工房で同時に二組以上の「百人一首歌かるた」札を制作していて何かの拍子に一枚が入れ替ってしまったのだと思いますが、「赤染衛門」が二人いたりするとちょっと楽しくなります。私はこの「かるた」を「古型つくも(九十九人)百首歌かるた」と命名して、『百人一首』の口絵でデビューさせていただきました。
ちょっとマニアっぽくなりますが、本阿弥光悦筆の版本『百人一首』では、「大納言公任」の和歌の初句は「瀧の音は」ではなく「瀧の糸は」と書かれています。『角倉素庵筆百人一首』もこれを踏襲しています。しかし『尊圓百人一首』は「滝の音は」です。そこでこの違いは、その「かるた」が少し古い時代の素庵の版本をモデルにしたのか、遅れて出版された『尊圓本』をモデルにしたかという製作時代を示すことになります。同様に、紫式部の和歌の末句は、『光悦本』では「夜半の月かな」ですが、『素庵本』は「夜半の月影」であり、『尊圓本』ではまた「夜半の月かな」に戻ります。ですから、年代不詳の「かるた」があったときに、それが「滝の糸は」と「夜半の月かな」であれば『光悦本』がモデル、「滝の糸は」と「夜半の月影」であれば『素庵本』がモデル、「滝の音は」と「夜半の月かな」であれば『尊圓本』がモデルと考えられます。
この違いを実証する「かるた」はなかなか発見できなかったのですが、ある古書市で、無事目出度く「滝の糸で」であり、かつ「夜半の月影」である「古型百人一首歌かるた」を発見し、保存することができました。また、「二條院讃岐」の和歌は、『光悦本』では「わが袖は」ではなく「我恋は」なのですが、この表記の札もなかなか発見できませんでしたが、ある骨董市で、文字だけの「古型百人一首歌かるた」を発見し、その場で調べたところ、さまざまな箇所が『光悦本』の表記そのままで、「二条院讃岐」が「我恋は」であったのを、後の時代に「我袖は」に上書きしたものでした。この「かるた」は、「かるた」札の様式が「大ぶり」で「文字だけ」という江戸時代初期を思わせる古いタイプであり、収納箱の上面の表記も「百人一首哥カルタ」と江戸時代初期に流行した表記ですが、大納言公任は「瀧のをとは」であり紫式部は「夜半の月哉(かな)」でして、収納箱も江戸前期前半くらいのものですので、『光悦本』直伝の慶長、元和年間頃のものとはいいきれず、古く見ても寛政年間あたりのもの、厳しく見れば江戸時代前期前半のものと思われます。それにしてもこれが、残存する「かるた」札の中では一、二を争う古い時期のものであろうとは言えますが。
なお、光悦本モデルの「かるた」札は1610年代以降、素庵本モデルの「かるた」札は1630年代以降、尊圓本モデルの「かるた」札は1650年代以降、そして標準型の「かるた」札は江戸の浮世絵師菱川師宣が活躍した1680年代以降のものというおおざっぱな時代区分が可能です。ただし、これは始期を示すだけで終期は示しませんので、私が発見したような残存している「かるた」札の制作年代にこの基準値をそのまま生で当てはめることは妥当ではありません。「かるた」札や収納箱の様々な箇所に見える時代の違いを総合的に識別して判断しないと鑑定を誤る危険性があります。