1973年、当時31歳の私は、イギリス、ロンドン大学高等法学院(Institute of Advanced Legal Studies)でイギリス憲政史を研究する目的でロンドン市内に滞在していましたが、日常の生活の中で、政治的領域と別の文化的領域の健在ぶりに感銘を受けました。イギリスというのは不思議な国で、切手にイングランド切手、スコットランド切手があったり、スコットランド銀行が今でも銀行券を発行していてスコットランドではイングランド銀行の銀行券と対等に通用していたり、四か国対抗のラグビー大会が、イングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドであったり、地方の自立性が高いのです。ウェールズにはまだウェールズ語があって、この地の交通標識は上下二枚で英語表記とウェールズ語表記であったりして、驚くばかりでした。当時はちょうど議会の解散直後で、ウェールズ域内の市役所に貼ってある選挙の告示も二か国語であるのには本当に驚きました。そして、ヨーロッパを遊覧旅行していると、どこの国でも、国内が地方に分かれていて、各々の地域に固有の文化、生活があり、人々がそれを大事にし、楽しんでいました。ですので、ヨーロッパ滞在中に、何か、地域ごとに成立している文化の歴史や現状について実感したいものだと思いました。そして、縁あって、「カルタ」の遊技史に興味が向くようになりました。

“The Dragons of Portugal”(Sandford, 1973年)

一方、当時、ヨーロッパでは「カルタ」史研究の勃興期で、イギリス、ドイツの研究者を中心に、国際的な学会、Playing Card Society(PCS、後にInternational を加えてIPCS)が設立され、初代会長のイギリスベースの研究者、シルビア・マン(Sylvia Mann)さんと盟友のアメリカベースの研究者、ヴァージニア・ウェイランド(Virginia Wayland)さんという二人の女性研究者による、ポルトガルカルタのアジア進出に関する画期的な研究成果、”The Dragons of Portugal”(Sandford, 1973)の公刊があり、最終ゴール地であった日本のカルタ史への関心が高まっていましたので、日本人である私の学会へのアクセスは歓迎されて、私は日本の「かるた」の歴史などまったく知らない、「かるた」札の手書きの日本語が読めて英語で説明ができるというだけの素人であったのですが、彼らの日本「かるた」史研究のサポートに入り、第一線の研究者たちとすぐに親しくなりました。

私はここで、ヨーロッパの各地域には、そこに固有の「カルタ」遊技とそれに用いるその地域に固有の「カルタ」札が現存していて、活発に楽しまれていることを知り、政治的な国籍の帰属とは別の、各々の地域での「カルタ」遊技文化の厚みに感銘を受けました。また、各地域には、そこでの人々とその暮らしぶりをこよなく愛する「カルタ」史の研究者がいることも知りました。PCSでは、地方札(Regional Pattern)という物品史料を基礎的な単位にした比較地域文化史の研究が主流であり、そうした方法論に同意していた私たちは、自分たちをシルビア・マン学派(Sylvia Mann School)と自称していました。

かるたをかたる会機関誌 “CARDS and TAROTS”創刊号(1979)

この学派の学術的な厳格さを確立するうえで貢献したのは、タロット史の研究に熱心であった、オックスフォード大学教授で、ヴィトゲンシュタインやフレーゲの研究では世界的に著名だったマイケル・ダメット(Michael Dummett)さんでした。また、アジアの「カルタ」史の研究ではドイツ、シュツットガルト近郊の「ドイツカルタ博物館(Deutsches Spielkarten-Museum)が熱心で、インドの「カルタ」史を扱ったオーストリア、ウィーンのルドルフ・ライデン(Rudolf von Leyden)さん、中国や日本の「カルタ」史に取り組んだ、同じくオーストリアのゲルノート・プルナー(Gernot Prunner)さんとドイツ、ミュンヘンのデトレフ・ホフマン(Detlef Hoffmann)さん、などがここを拠点にして研究をしていました。日本と関係の深い「オランダカルタ」史研究のハン・ヤンセン(Han Janssen)さん、日本製の「地方札」の輸入と紹介に熱心だったモーリス・コレット(Maurice Collett)さんもいました。私は、日本の「かるた」の歴史について、また、日本の多彩な「地方札」の展開についてイギリス人やドイツ人の研究者に教えてもらって「カルタ」史研究を始めたという情けないスタートであったのですが、その後、帰国後にこの研究を止めることなく続けることができて、約五十年それを継続して今日に至っています。

『アジアのカードとカードゲーム』(大阪商大アミューズメント産業研究室、2000年)

これは近著『ものと人間の文化史186 百人一首』(以後『百人一首』)のあとがきでも触れたことですが、私は、1974年の帰国後に、「日本かるた館」同人に加わり、1979年からは、IPCS日本支部の「かるたをかたる会」を設立、運営し、1988年に「遊戯史学会」の、また1991年に「日本人形玩具学会」の設立に関わり、同年に新設の「大牟田市立三池カルタ記念館」の顧問に就任して館の設立、運営に協力しました。日本に伝来した「南蛮カルタ」を模倣した日本最古の国産カルタ、「三池カルタ」の復元も行いました。なお、この他に、世界のカードゲームの母国、中国で各地の「紙牌」という歴史史料の蒐集に努めました。当時、世界中のカルタ研究者の間で、中国では文化大革命期に紙牌は古い時代の賭博用具、悪弊だとして禁圧されて滅んだと言われていましたので、残存していること自体が奇跡のように思えまして、数年かけて自費でそれこそ中国の大多数の省、市、自治区に出かけて調査して、各地に「紙牌」の遊技が残り、ひそやかに遊ばれていることを突き止め、その証拠として現に使われている「紙牌」の地方札を蒐集しました。この調査と蒐集の成果は、大阪商業大学アミューズメント産業研究室が2000年に刊行した『アジアのカードとカードゲーム』に掲載されています。

『麻雀博物館大圖録』
(竹書房、1998年) 

そして、その延長で、「紙牌」から「麻雀骨牌」への発展史研究を行い、「一索進化論」を提唱して、1999年に千葉県夷隅町(現在のいすみ市)に開設された世界初の「麻雀博物館」の顧問に就任して協力し、麻雀牌の変遷から見た麻雀遊技の歴史と現況をカラー画像で紹介した『麻雀博物館大圖録』を編集、出版しました。これは世界の麻雀史研究史上で初出の書籍となり、広い反響を呼びました。また、賭博ではない健全な遊技としての「健康マージャン」の普及に尽力していた「日本健康麻将協会」の理念に賛同して顧問として協力し、毎年都道府県持回りで開催される高齢者の運動祭である「全国健康福祉祭」、通称「ねんりんピック」に「健康麻雀大会」を加える活動に加わり、今では各地の自治体で取り組まれている「健康麻雀」支援活動に火をつけました。さらに、「日中友好健康麻雀大会」顧問となって中国での健康スポーツとしての「麻将」(麻雀の中国語での呼称)の解禁と麻雀競技を通じた日中友好の推進に参加しました。1998年には中国、北京市の北京飯店で「麻雀博物館北京展覧会」を開催して、賭博にならない健康麻雀の解禁に向けて中国各界の指導者の理解を求めて「解禁」の成果を得ました。中国では今日でも「健康麻将」は頭脳スポーツとして公認されています。現在、実力は伴わない理屈だけの段位ですが、業界団体からアマチュア最高段位の「九段」を授与されています。

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