山口吉郎兵衛(ウィキペディア)

さて、今日は、昨年末に法政大学出版局のシリーズ『ものと人間の文化史』の一環として『百人一首』を刊行したのをきっかけとして、「かるた」史研究のあれこれをお話しせよということですので、まずはこの道の大先輩、兵庫県芦屋市にお住まいだった山口吉郎兵衛氏についてお話しさせていただこうと思います。なお、ここからは、吉郎兵衛さんと呼ばせていただきます。

吉郎兵衛さんは江戸時代から大坂で開業して成功していた「布屋吉郎兵衛店」の四代目当主であり、先代の三代吉郎兵衛が開設した第百四十八国立銀行を1899年に改組して大阪に私営の「山口銀行」を設立して、その後各方面の事業に進出して山口財閥を成功させた方ですが、お父様から相続なさった時は十六歳であり、生来病弱であったので経営の実際は町田忠治らの有能な番頭に任せ、ご自身は慶應義塾大学に通われ、ご卒業なさってからも病気の療養と趣味に生きるお大尽の人生を送られました。芦屋のお金持ちの悠々自適の生活ということです。吉郎兵衛さんは、その際に、自分の趣味に投じる小遣いは一年24万円、これは明治時代の金額ですので今日の物価水準に直して言えば十億円以上ですが、という上限を定めたと言われています。もちろん、このほかに、家族にも言えない、記録に残らない、秘密のへそくりからの臨時の支出があったであろうと容易に想像できますが。

吉郎兵衛さんが力を入れられたのは、まずご自身の鑑定眼の良さを活かされて、日本各地の「国焼」の陶磁器を茶道のお道具として活用する趣旨での探索、発掘、保存でした。当時は、「国焼」の世評はまだ低く、人気もさほどではなかったので、中世、近世のすばらしい作品も入手しやすかったようでして、現代の茶道関係の雑誌などで口絵の写真に「国焼」の逸品が紹介されることがありますが、滴粋美術館蔵という記載にもよくお目にかかりました。二つ目が「雛人形」と「押絵羽子板」でして、江戸時代の各時期の逸品が集まっています。そして三つ目が「かるた」でして、大正、昭和前期には、江戸時代の「かるた」などに歴史史料の価値を見出す者はほとんどいなくて、わずか数名の収集家が物好きで手を出すだけでした。ですので、吉郎兵衛さんの蒐集意欲は珍しがられて、多くの古物商が吉郎兵衛さんのもとに持ち込んできまして、吉郎兵衛さんがそれを実に的確に学術的に鑑定して歴史史料としての価値のある江戸時代のものを数多く購入して集めましたので、その「かるた」コレクションは日本で随一の規模と質になりました。その地位は今日でも揺るいでいません。

ただし、銀行経営は、昭和初期の金融恐慌の影響などもあってうまくいかず、1933年に同じく大阪の鴻池銀行、第三十四銀行と合併して三和銀行になり、吉郎兵衛さんは経営から退きました。これにつきご子息の山口格太郎さんは「我が家は親父の道楽が過ぎて商売がうまくいかず、今はもうしもた屋になってしまいまして」とおっしゃっていましたが、大阪には山口家の資産を管理する会社があって従業員が四名雇われておりましたので、私は「そうは仰っても、御宅は財産管理だけで従業員四人ですから同じしもた屋でも我が家とは桁が三つくらい違うでしょう」と応じていつも笑い話になってしまいました。

『うんすんかるた』
(リーチ・私家版、1961年)

吉郎兵衛さんは昭和前期の戦争の時代には、芦屋市のご自宅に籠って「かるた」史の研究と論稿の執筆に集中なさり、敗戦後、1951年に、「かるた」史の執筆の途中でしたがお亡くなりになりました。「滴翠」は吉郎兵衛さんの雅号で、没後にご遺族が、故人の蒐集した古美術品や歴史史料の活用を図られて、ご自宅を改装して1964年に「滴翠美術館」として開館し、一般の展覧と研究協力に開放されました。そして、没後十年の機会に、ご子息の山口格太郎さんが、吉郎兵衛さんの残された「かるた」史研究の遺稿をまとめられて、1961年に『うんすんかるた』と題されて自費出版となり、故人とご縁のあった方々に配られました。

このご本の基となった吉郎兵衛さんのご研究は、日本の「かるた」史を、16世紀のポルトガル人来航に伴う伝来から説き起こして、南蛮カルタ系の「天正カルタ」「うんすんカルタ」、純日本的な「歌合せかるた」、「文字合せかるた」「絵合せかるた」とすすむ、いわば『日本かるた全史』あるいは『かるたから見た近世、近代日本史』という壮大な企画で作業されていたものでして、不幸にして途中でお亡くなりになったので、格太郎さんの苦心の編集があったものの、後半部の「絵合せかるた」の部分では記述は蒐集した史料の紹介に終わっており、尻切れの感が残ります。格太郎さんはしばしば、「親父はかるたのことを話したがっていたのに、もっと話を聞いてやればよかった。」とこぼしていましたが、後の祭りでした。

なお、滴翠美術館は、1932年に建設されたご自宅を改造して、1964年に博物館法上の美術館として開館し、格太郎さんが理事長になられましたが、1972年に、近世陶磁器研究の泰斗、満岡忠成さんを館長に迎え、格太郎さんは副館長に移られ、史料の展示公開、研究情報の提供、所蔵品を活用した陶芸教室や茶道教室の開催などで高く評価され、芦屋市内の文化施設として今日でも活動を続けられております。建物は建築学的にも貴重な近代建築ですが、さすがに山口家のお屋敷でして、1995年の阪神淡路大震災でも無傷であったそうです。

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