閑話休題。榛原は、さすがに、草創期の麻雀関連書物のこともほぼきちんと指摘していて誤りがない。また、クラブ式麻雀のその後についても、関西方面にはいくつかのクラブができていたが、それを別にして東京で考えれば、第二号は、大正十三年(1924)の春に『婦人画報』社が同社の建物で毎週開催したクラブである。ほぼ同じ時期に東京牛込の「プランタン」が開業しているが、正確な前後関係は不明である。これらに次いだのが、同じく大正十三年(1924)の夏に開かれた「華昌号」の「麻雀練習場」である。これ以降、各地に麻雀クラブが設立されて、大ブームが到来したのである。榛原はこれらのクラブについても詳しい。

榛原は昭和前期(1926~45)の日本の麻雀界をリードしたオピニオンリーダーであり、当時、麻のように乱れていた麻雀競技法の改良、統合にも多くの発言をなし、麻生雀仙(本名賀来俊夫)とともに日本雀院を設立して実際の競技にも力を入れていた。彼の著作『麻雀精通』[1]は、日本麻雀史研究の基本文献として、今日でも光り輝いている。

ところで、この榛原茂樹というのは麻雀世界での筆名であり、本名は波多野乾一(はたのけんいち)である。明治二十三年(1890)に大分県に生まれ、長じて、中国上海の東亜同文学院政治科を明治四十五年(1912)に卒業すると、翌大正二年(1913)に大阪朝日新聞社に入社し、それ以降、大阪毎日新聞北京特派員、北京新聞主幹、時事新報北京特派員など、中国問題専門の新聞記者として活躍した。第二次大戦後も、産経新聞論説委員などで活躍したが、昭和三十八年(1963)、七十三歳の誕生日の直後に逝去した。。

波多野は、中国問題の研究者として大変に優秀であり、第二次大戦後に日本を占領したアメリカ軍も注目しており、波多野が収集した中国の共産主義運動に関する資料類は一括してアメリカに渡っていると言われていた。波多野がまとめた『中国共産党史』全七巻は、中国共産党自身が、自分たちの作った党史よりも勝っているといったくらいに、名著の誉れが高い。

梅蘭芳
梅蘭芳

こういう経歴の榛原は、大正年間(1912~26)に日本と中国を行き来しており、新聞記者として交際の範囲も広く、とくに上海には、東亜同文学院在学中の友人、知人が数多く居たので、中国の政治、文化や、それと日本人との関係の情報はリアルタイムで入手していた。京劇の俳優、とくに名優、梅蘭芳との交友は著名であり、京劇に関する知識を得たし、この筋から中国共産党に関する知識も得ることがあった。当然ながらその中には、まさに日本に到来し始めた麻雀というゲームのことも含まれており、自らもこれを愛好する者として、状況の進展を熟知していた。大正年間の後期(1919~26)には、上海周辺で、このローカルな遊びが外国人の人気を得るようになり、とくに、スタンダード・オイルの福州支店に勤務していたジョゼフ・バブコックによって、広く世界に紹介された事情も目撃している。その意味で、榛原は、日本麻雀の黎明期を知っている最重要の目撃人物であるし、彼が書いて残したものは信頼に値する。


[1] 榛原茂樹『麻雀精通』、春陽堂、初版昭和四年、改訂版昭和六年。

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