片山貞次郎・骨牌税提案論文
片山貞次郎・骨牌税提案論文

日本では、明治十九年(1886)一月に、前年の年末に大阪から上京した、 大阪市内日本橋で錦絵の制作、販売を行っていた綿屋、前田喜兵衛が、東京の薬研堀で花札・トランプ類の販売を開始し、その後三月までに京橋、銀座に出店した。

当時の社会的な常識としては、花札は非合法な賭博の用具であってこれを公然と販売することは許されないと観念されていたが、人々の予想に反して政府はこれを公許して、カルタの制作・販売・輸入の解禁を確認した 。

だが、こうした公許と引き換えにこれに課税しようとするカルタ類税創設の動きは特には生じなかった。花札、トランプの解禁は、周到な準備を経た施策というよりは、イギリスが対日貿易の不振を打開しようとして、非関税障壁の撤廃を求めてきたことへの対応という対外関係も関わる、思い付きのような決定であったのであろう。

記録に残るカルタ類税の最も早い提言は、明治三十年(1897)三月に若手の大蔵省官僚、片山貞次郎が表した「骨牌ニ重税ヲ課スルコトニツキテ」である。これが公表されたのは、東京帝国大学法学部の紀要、『國家學會雑誌』121号250頁である。

片山はここで、花札が日本社会で大流行しており、また関西方面では西洋骨牌も流行の兆しがあり、これが国民の投機的な気分を助長するなどの弊害を生んでいることを指摘し、酒類、煙草に倣って贅沢税を課するべきであると主張した。その際に片山は、イギリス、フランス、ドイツ、アメリカ、オーストリアの諸国で同類の課税がなされていることを紹介し、そのうえで、立法の趣旨はこうした諸国の税制の追随にあるのではなく、あくまでも日本国内での花札の流行への対処であることを強調する。つまり、一組一円程度の重税を課せば、成人男性や玄人はこの程度の負担増では花札の遊技を止めないので結果的に国庫に相当の収入増がもたらされる一方で、女性や子どもは税負担に堪えられないので花札の遊技から手を引くようになり、賭博的嗜好の減少により社会の風紀の静穏化に益するというのである。

その後、明治三十四年(1901)に日本は不景気に見舞われ、地租増収、諸税増税とする政府の増税案で政局が紛糾して、五月に第四次伊藤博文内閣が総辞職し、その後伊藤は欧米の視察旅行に出かけた。その後を継いだ桂太郎内閣は、明治三十五年 (1902)二月四日、「骨牌(カルタ)税法」(案)を衆議院に提出し、衆議院、貴族院での審議を経て成立し、四月五日、「骨牌税法」(明治三十五年法律第四四号)として公布された。税額はカルタ類一組二十銭であり、七月一日に施行された。

ここで注意するべきなのは、骨牌税の立法趣旨である。以前、かるた史の研究では、骨牌税の立法趣旨は日露戦争の戦費の調達にあったとする日露戦争戦費調達説が有力であっ た。それは昭和後期に京都の花札製造業者が唱えた業界話であり、特に大石天狗堂の店主、前田正文が有力に吹聴して、それを往時の花札史研究の第一人者、村井省三がそのままに史実として採用して説明して(「骨牌税の施行」、村井省三「日本の賭博かるた」『別冊太陽いろはかるた』平凡社、昭和四十九年、164頁)、そうなっていたのである。だが、これは骨牌税法の成立年月さえきちんと確認しない乱暴な話であり、帝国議会の審議記録を見れば、 政府が強調した立法の趣旨は奢侈税であり、また、税収増として期待するのは年間で三十万円程度であった。まだ日露戦争の開戦決意からはほど遠かった政府がその戦費を調達するはずもなく、前田正文らの創作になる幻の業界伝説であることは明らかであった。

もう一点、業界伝説として成立していたのが、骨牌税は当時欧米視察で先進諸国のカルタ類税を知った伊藤博文の発案、提唱による新税制であるという、伊藤博文提唱説である。この説は、片山貞次郎の提言に始まる大蔵省内部での課税構想の経緯を無視する過誤があり、また、肝心の伊藤博文は、法案が作成されて帝国議会に提出された 明治三十五年(1902)二月当時は、ヨーロッパ滞在を終えで帰国途上の船中にあり、法案の作成を指導することは困難であった。伊藤が骨牌税の構想を文書で指示して早めに日本に送っていたり、随行員の中から人を選んで先行帰国して事に当たるように指示していたりした可能性も考えられないではないが、そうした記録はいっさい残されていない。

逆に、この時期に起きていたのが、トランプの本格的な国産の開始である。この時期に煙草製造業の村井煙草と花札製造業の山内任天堂は、アメリカのトランプ製造業者でUSプレイング・カード社に吸収合併されたナショナル・カード社のニューヨーク工場が合併のあおりで閉鎖になり、その中古の印刷機械が売りに出されていたものを購入して日本に運び、東洋印刷という会社を立ち上げて、村井煙草のパッケージの紙箱や山内任天堂の丸福印のトランプの本格的な製造を開始した。これが日本における本格的なトランプ製造の最初であるが、アメリカ製の印刷機械の性能は素晴らしく、最初から西欧の輸入トランプに対抗できる高品質が確保できた。

この時期の山内任天堂製のトランプについては残存例がなく、また同社の記録も散逸していて製造開始の年月も判然としなかった。そのために、トランプは、明治三十七~三十八年(1904~05)の日露戦争当時に愛媛県松山市内に開設されたロシア軍捕虜の収容所で捕虜の無聯を慰めるので提供するために、政府からの依頼を受けて同社が製造を開始したという業界伝説が、これもまたまことしやかに前田正文らによって吹聴されていた。村井のカルタ史の叙述では、村井煙草が村井家の先祖の仕事であったこともあり、誇らしげにこの伝説が史実として説明されていた(前掲「日本の賭博かるた」163頁)。

国産第一号トランプ(任天堂、明治三十五年)
国産第一号トランプ(任天堂、明治三十五年)

山内任天堂によるトランプ製造開始の時期は今でも不明確であるが、私は、アメリカ、オハイオ州シンシナティ市にあるUSプレイング・カード社本社の付属博物館を調査した時に、その倉庫にある「日本のカード」というボックスの中に、他の何点かのトランプとともに明治三十六年(1903)に同社が入手したことを示す当時のラベルが貼られた山内任天堂のトランプ数組が未整理の状態で所蔵されていることを発見した。

それには「ナンバー 1 」という商標名もあり、最初期の製品であることが分かる。このトランプには関連する記録が存在しないので、USプレイング・カード社がどのような経緯で入手したのかは分らない。つまり、これは販売開始以前に制作した試作品であるのか、それとも日本の市場に投じられたものを入手したのかが分らない。残されたものには、いずれにも、骨牌税の印紙を貼付した痕跡がないので、免税の商品見本か対外輸出用品であって、日本国内の市場で購入したものであった可能性は低いが、確定的なことは言えない。した がって、日本における国産トランプの発売開始の時期は厳密には確定できないのであるが、それでも、製造という点では、この年までに製造が開始されていたと言って大過ないと思われる。また、カードのデザインは、エースの図柄に最も明確に示されているように、ナショナル・カード社のトランプのデザインと酷似していて、日本側が購入したのは印刷機械だけではなく、トランプ製造のノウハウも含まれていたであろうことが推測できる。

したがって、わずか一、二年の違いであるが、明治三十六年(1903)にすでに山内任天堂のトランプが制作されていたのであるから、国産トランプの始まりは明治三十七~三十八年(1904~05)の日露戦争時の露軍捕虜の慰問品であるという前田正文、村井省三の所説の誤りは明らかになった。

こうして国産トランプの製造開始の時期が判明すると、私には、この西洋式のトランプの製造の開始と、片山貞次郎が紹介したように当時の欧米諸国では常識であったカルタ類税の制定が日本で同時に起きていることは、単なる偶然ではないと思われた。欧米の印刷機械を輸入して欧米のトランプを製造する。その際に欧米のカルタ類税も輸入する。これはとても自然な流れである。ただ、当時の事情を相当に調査したのだが、両者の関連性を示す確証は発見できなかった。具体的な史料が不十分なままでこの点をあまり強調すると、今度は私が新たな伝説の提唱者になってしまいそうなので、この説には拘らないこととした。


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