それならば、解禁の当時、トランプの伝来当時の遊技法がどのようなものであったか。明治十八年(1885)年末の緒言を持つ、翌十九年(1886)に出版された『西洋遊戯かるた使用法』に採用されているのは「二十一」、「消了(だしあがり)」、「點繪(てんとり)」「占繪(ゑとり)の別法」、「ナポレオン」であり、ブラックジャックに近い「二十一」のほかはトリック・テイキング・ゲームである。また、これに追随した上方屋刊の『西洋かるたの教師』は「二十一」、「消了(だしぢまゐ)」、「點繪(てんとり)」、「ナポレオン」、「占繪(ゑとり)の別法」である。また、明治二十一年(1888)、上方屋刊の『遊戯大學 一名かるたの使用』は、先行文献から一変して「ウイスト」、「ウイスト別法」、「スコット、ウイスト、一名十點狩」、「牌捕(ふだとり)」、「二十一遊戯」、「三十一遊戯」、「ポーカー」、「コンマース遊戯」、「フール」、「一對あがり」、「組あつめ」、「順序あがり」である。いずれも欧米の遊技法の直輸入であり、なかなか浸透しなかったと思われる。

そうした中で注目されるのが、「占繪」、つまり「絵取り」である。この遊技は簡単なトリック・テイキング・ゲームであり、四人の参加者が二人ずつでチームを組んで戦うパートナーシップ・ゲームである。勝ち負けはチームで獲得した絵札の枚数の多寡で決まる。ゲームのルールはいくつかの点で日本に固有のものである。そして、明治十年代(1877~86)末期から二十年代(1887~96)の初めにかけて、解禁されたばかりのトランプの遊技法を解説する際には、この「絵取り」が紹介の中心になっていた。解説書の中での「絵取り」の存在感は圧倒的で、これを知らなければトランプを知ったことにならなかった。つまり、この時期には早くも「絵取り」という日本的な遊技法が開発され、普及していたのである。これには相当の時間が必要であるので、「絵取り」は解禁に伴って海外から導入された新遊技法ではなく、以前から日本国内で使われていた遊技法が解説書に掲載されたものと思われる。つまり、トランプ前史の遊技法の主役は「絵取り」であったのだ。

島根県雲南市掛合町(かけやまち)には、江戸時代に長崎から伝わったとされている「絵取り」[1]というトランプのゲームがある。江戸時代から西日本の各地に伝わっていた「絵取り」がこの地区では現代まで残ったという珍しい例であるが、これと明治前期(1868~87)の「絵取り」との関係はよく分からない。一足飛びに想像を膨らまして、長崎の丸山遊郭では「絵取り」が遊ばれており、それが掛合町に伝播して残り、また、明治前期(1868~87)になって上方や東京の遊興の場に伝播して、指南書に採録されるようになったという経緯が描ければ嬉しいのであるが、史料はついに見つからず、これを唱えれば単なる想像の告白にしかならないのが残念である。もう少し常識的な推測をすれば、江戸時代の長崎に「絵取り」という遊技法があり、そこではオランダから伝来した一組が五十二枚のカルタ札を使っていたが、それが長崎を来訪した者を通じて諸国とくに西日本各地に伝わった。掛合町はその一事例であろう。そういう地域ではオランダのカルタ札を入手することはできなかったので手製の札を工夫して遊技した。そして、明治前期(1868~87)には輸入解禁後のカルタ札を使って行う「絵取り」の遊技法が全国的に採用されて、江戸時代に伝来していた地方色のある古風な遊技法は滅んでいったのだが、掛合町ではなぜか古風な江戸時代の遊技法が、口伝えの由来の伝承と共に残り伝えられていった、という事情が推測される。

「占絵(ゑとり)」は単純なトリック・テイキング・ゲームで、参加者は四人で、二組に分かれて十三トリックを争う。勝敗は、原型の「ホイスト(Whist)」のように獲得したトリックの数の多寡で争うのではなく、そこに含まれる絵札の枚数の多寡で決める。これは日本独特の遊技法であり、解禁直後の本書に収録されているのであるから解禁以前から一部、たとえば外国人客の多かった横浜の遊郭などで細々と遊ばれていたのであろう。また、この遊技法の変形が「ナポレオン」で、昭和期(1926~89)にはこちらの方が広く愛好されている。一方、明治二十一年(1888)刊の「上方屋」『遊戯大学一名かるたの使用』[2]では、「占絵(ゑとり)」は消えて、その代わりにそれにほぼ同じ遊戯法で勝敗の計算時に切り札の絵札に高得点を配分する「ウイスト」が説明されている。「ウイスト」は「ホイスト」のことのようだが、前者は絵札の数、後者はトリックの数の勝負であるところが違う。日本に伝来した遊戯法「ホイスト」がそれ以前に国外のどこかで変化していたのであろうか。

同書ではさらに、「ウイスト別法」「スコットウイスト一名十点狩」「牌取(ふだとり)」「二十一遊戯」「三十一遊戯」「ポーカー」「コンマース遊戯」「フール」「一対あがり」「組あつめ」「順序あがり」が紹介されている。なおこの時期に、アメリカ留学帰りの山川捨松(後の大山捨松)、津田梅子、永井繁子(後の瓜生繁子)が「ホイスト」を好み鹿鳴館などで盛んに遊技したと言われている[3]。どのような遊技法であったのか興味あるところである。

その後、明治三十七年(1904)に刊行された川村花暁『歌がるたトランプ必勝秘訣』[4]は、早稲田大学を卒業して扶桑女学校の国語の教師などを勤める著者が同年の夏に夏休みを利用して四国松山に旅行して、ロシア軍の捕虜が収容所でトランプを愛好しているのを見て興味を抱き、同地で自分も実際にトランプで遊んで解説書を書いたという趣向になっているが、紹介されている遊技法は「畫取(えと)り」「二十一点」「点取り」「ダブルマイナス」「引き合せ=おふくろ」「ナポレオン」である。こうした日本式の遊技法でロシア人が遊んでいたとは考えにくい。明治年間(1868~1912)に流行した遊技法は「絵取り」ないし「ホイスト」であり、「二十一」も人気があったようである。

もう一つ注目されるのが、子どもの遊技の御三家、「ババ抜き」「七並べ」「神経衰弱」である。日本では、トランプの遊技というとこの子どもっぽい三種類のそれが盛んであり、総じてトランプという遊技具そのものも子ども用の遊具と理解されがちである。そして、不思議なことに、明治十九年(1886)にトランプの輸入が解禁されると、その一、二年後にはすでに子ども向けに和紙の美濃判一枚に全五十二枚のカードが刷り込まれた、当時流行の花札よりも一回り小さな「西洋かるた」の玩具を見ることができる。これは何軒もの版元から出版されており、当時、少なくとも東京の子どもの間でトランプが新しい玩具として人気を博した事情を知ることができる。トランプが子どもの玩具であるという観念の浸透が早かったことと、子ども向きの簡単な遊技法の御三家が日本のトランプ遊技の中心になり、後にかるた史の研究者、松田道弘が「カード・ゲームの文化だけが、百年ほど前の段階、いわゆるチルドレンズ・ゲームの段階で低迷している」[5]と嘆いたような展開になったこととは深く関係しているように思える。ただし、この点では、文献史料にせよ、物品史料にせよ、いくらでも残っていそうなのであるが、不幸にして私は極めて不十分にしか発見できておらず、この記述も決定的な証拠に欠ける。今後の研究の進展に期待したい。


[1] 赤桐裕二『トランプゲーム大全』、スモール出版、平成二十六年、三〇二頁。

[2] 前田多門『遊戯大学一名かるたの使用』上方屋勝敗堂、明治二十一年。

[3] 「津田梅子の『愛される理由』」『パンプキン』平成四年八月号、潮出版社、二〇頁。

[4] 川村花暁『歌がるたトランプ必勝秘訣』大學館、明治三十七年。

[5] 松田道弘『トランプものがたり』岩波新書、岩波書店、昭和五十四年、一八一頁。

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