昭和後期の高度経済成長期は、日本の花札市場で最後のブームの時期であり、昭和三十年(1955)当時は一年に一百万組程度の出荷であったものが、八年ほどたった昭和三十八年(1963)には三百万組にまで増加した。空前の好景気を背景に、全国各地の生産現場、再開発現場で花札が舞い散っていたのである。こうした急激な需要増に対応することは、伝統の手作り産業にとっては難しいことであり、その隙間を狙ってここに列挙した数社の新規参入があったのだが、結局は、急激な増産に対応できる機械製の花札を供給できた「任天堂」が吸収してしまった。それについてはすぐ後で触れるとして、その他のかるた屋の試みを見ておこう。
京都市の「田村将軍堂」は、もともとは百人一首かるたの製作をしていた会社であるが、昭和後期に花札にも範囲を広げた。この会社には、百人一首の製作で築いた歴史と手作りかるたの技術があったが、カルタ屋としては後発であり、花札図像の色彩を明るくカラフルなものにしたり、プラスチックの収納箱の高さを半分にして横に広げてトランプと同じようにしたり、トランプ型の花札を考案したり、図像を変化させたものを作ったりと、いろいろと新企画の工夫を凝らして市場への浸透を図っている。その成果もあり、また、定評のある百人一首かるたとともに市場に投じたことなどもあって、一定の顧客をつかむことができた。
滋賀県八日市市(現東近江市)にあった「翁カルタ」と「東洋骨牌」は、京都に近いこともあって花札を製作していたが、徐々にトランプに生産の主力を移すようになり、会社名も「エンゼルトランプ」と「大日本トランプ」に変えた。「エンゼルトランプ」はその後、プラスチック製の花札を開発した。このプラスチック花札は、もともとは韓国で盛んに用いられた物で、1970年代の韓国で、それまでの紙製の「花闘」に代わる「ナイロン製花闘」として市場で歓迎された。日本人の感覚では、紙製の物の方がはるかに高級で、プラスチック製は殆ど手に馴染まないと思われているが、韓国では逆で、紙製よりもプラスチック製の方が好まれる。以前にソウル市の骨董屋で、この時期の「花闘」で、紙製なのに箱にはプラスチック製と書いてある物を見つけた。「翁かるた本舗」の試みはうまく行ったのであろうか。日本ではプラスチック製といえばどうしても安物のイメージが付きまとう。また、昭和四十年(1965)の日韓国交回復後には韓国との交流も盛んになり、在日韓国人や韓国からの入国者のために大阪や東京に韓国の物品を販売する商店も増えて、そうしたコリア・タウンでは韓国から輸入される本場の「花闘」が容易に入手できるようになったので、日本製のプラスチック花札には厳しい市場環境になった。
大阪市の「ユニバーサル社」は大正期(1912~26)から昭和前期(1926~45)にトランプ製作で成功した経験を生かして、「切放し」つまり機械で印刷したカルタの縁を機械で切り揃えて花札を完成させるトランプのような手法で新製品を売り出した。この「切放し」の手法は昭和前期(1926~45)に朝鮮に移出する花札で用いられていたもので、面倒な「縁返し」の手間を省けるので製作費が安価に済むのがメリットであった。「ユニバーサル社」はその手法を洗練させ、表面のコーティングをさらに工夫して強化した「ゴム花」と堅牢な「萬年花」を売り出した。この「切放し」の手法は、その後「伊藤幸治商店」の「近代花」でも採用された。
東京都の「平凡企画」は、昭和三十年代(1955~64)以降に、高度成長の社会に生じた若者文化にターゲットを絞ってさまざまな企画を進めていた。大橋歩の表紙絵で目立った週刊誌の『平凡パンチ』は広く若者の気持ちをつかみ、この会社はその表紙絵を図像にしたトランプを発売したりもした。花札に関しては、花札と「花トラ」の両方を製作、販売した。
東京都の「ニチユー」(日本遊戯玩具社)は「田村将軍堂」製の花札を自社の包装紙で包んで販売していたが、昭和五十年代(1975~84)に自社ブランドのものを韓国で下請け製作をさせることを試みた。韓国には「縁返し」の手法は既に途絶えていたので技術指導でそれを教えたのだが、満足できる品質の物が確保できなくて間もなく撤退した。当時、ごく一部に、透明の包装紙にMADE IN KOREAというゴム印を押された花札が出回った。韓国で下請け生産したものである。
花札を販売していた全国各地の業者は、「遠藤商店」(福岡市)、「日本娯楽」(広島県尾道市)、「山崎琴水堂」(岡山県玉島市)、「菊水堂」(神戸市)、「マル芳」(大阪市)、「仁壽堂」(奈良県奈良市)、「岩田本店」(名古屋市)、「いせや工業」(名古屋市)、「小出遊花堂」(東京)、「西村商店」(東京)、安藤商店(東京)、「大日本観光堂」(岩手県花巻市)などである。各社とも、敗戦直後は自社で製作していたが、やがて、京都のかるた屋に製作させて自社の包装紙で包んで販売するようになり、それも、最初は一応「桐」のカス札などに自社名を入れて自社ブランドにしていたのだが、そのうちにそれも止めて京都のかるた屋の名前の入ったかるたをそのまま使うようになった。
この時期には、「任天堂」の優越が目立った。「任天堂」は、明治期の山内房次郎による創業の当時から、かるた製作手法の技術革新に熱心であった。花札に機械印刷の表紙(おもてがみ)を使ったのも早く、これによるコストダウンで花札の安売りを実現できたことで、「任天堂」は業界で確かな地位を築いていった。そして、早くから取り組んでいた花札の機械による製作が成功して、代表的なかるた屋に成長することができた。昭和後期には、以前の「日本骨牌製造」のブランドである「大隊長」に代わって「任天堂」の「大統領」が最も代表的な花札の銘柄になった。「任天堂」の機械で花札を製作する技術は昭和四十年代(1965~74)に完成して完全に一貫して機械で製作することとなり、大量に製作される製品の均一美もあった。旧来の手作りのものに比べればたとえば全体の厚みが一寸二分五厘に収まらないで少しふやけたような部厚さがあり、また札の反りも全体に緩く、まだこれに慣れていない手には馴染みにくいなど、その品質にはなお改良するべき点が残ったが、しかし、大量に安定的に供給できることは大きなメリットであり、均一の商品の美しさもあり、顧客も徐々にその品質を受容するようになっていった。
「任天堂」がトップ・ブランドの地位を確立するには、トランプの影響もあった。「任天堂」は明治三十五、六年(1902~03)に日本で最初に近代的なトランプの製作を始めたメーカーであり、その後、大正期(1912~26)、昭和前期(1926~45)には、トップ・ブランドの地位を大阪の「ユニバーサル・トランプ社」に譲り渡していたが、昭和後期(1945~89)には、ディズニーのキャラクターを裏面に印刷した「ディズニートランプ」をヒットさせて、一躍日本一のトランプ屋になった。ディズニーのキャラクターを玩具で使う版権は、もともとはディズニーと古くから友好関係をもっていた東京の「童宝社」という玩具メーカーにあったので「任天堂」はトランプに限ってその権利を譲り受けて製作にあたったのである。この「ディズニートランプ」のシリーズは全国の児童に歓迎されて、「任天堂」はトランプの生産量を飛躍的に伸ばして莫大な利益を上げることができた。また、トランプに、紙に代えてプラスチックを使用したのも「任天堂」が最初である。
「任天堂」は、こうした花札、トランプでの成功のほかに、さらに、「百人一首かるた」の領域でも、機械で製作する安価な普及品から素材に凝った豪華な高級品までの豊富な品揃えを進めて、老舗の「田村将軍堂」と対抗するメーカーとなった。こうした様々なカルタ、かるたの成功によって、「任天堂」は一社だけ特別に巨大な総合的なかるた、カルタの製作会社になっていったのである。
こうして見ると、昭和後期(1945~89)のかるた業界による企業努力は、すでにあるかるた愛好者の市場で自社の製品がいかに受け入れてもらえるのかという観点からの努力であったことが分る。花札や賭博系のカルタなどの市場を拡大しようという企業努力は乏しい。そうした中で任天堂は成功して、トップ・ブランドに上り詰めた。他のかるた屋は、徐々に陰りが出て縮小してゆくこの市場での自社の生き残りに苦闘し、多くは敗北して市場から消えていった。かるたは伝統の遊技であり、かつては多くの人を魅了した。だが、それが逆にブレーキとなって、そこに遊技としての新たな魅力が感じられるようなルールや遊技用品がなければ、他の多くの遊技、娯楽がそうであったように、かるたも愛好者が減少し、斜陽を迎えることになる。残念なことに、かるた業界には、新しい遊技法を開発するなどしてかるた遊技の愛好者の範囲を広げようとする試みが足りなかった。