二 百人一首歌仙絵の世界での指導権の争奪 (七)崇徳院の上畳描写が示す歴史的な意味 歌人絵というジャンルでの土佐派と江戸狩野派のしのぎ合いは、結局は、狩野探幽らの『百人一首手鑑』が幕府に受け入れられたことによって江戸狩野派の歌人絵の正統性が幕府によって公認され、同派の全面的な勝利に終わった。また、江戸の浮世絵師菱川師宣の活躍により版本において江戸狩野派の図像の優位が確立し、それが「百人一首かるた」の歌... 館長
二 百人一首歌仙絵の世界での指導権の争奪 (六)狩野派の目指した崇徳天皇の復位 そして、ここで最も目を引くのは、狩野派が、崇徳院に繧繝縁(うんげんべり)の上畳と茵(しとね)を配して描くことによって、それまでは崇徳院から畳、茵を除くことで、同院を「廃帝」であるので上皇として認めず、臣籍に追放していた土佐派の絵師と光悦、素庵を非難し、そしてそれを容認した後水尾朝廷の皇室史解釈を批判している点である。後... 館長
二 百人一首歌仙絵の世界での指導権の争奪 (五)江戸狩野派による歌仙絵の主導権の奪取 ここで私が注目したのは狩野探幽である。狩野探幽は、幕府の奥御用絵師という立場を得て、江戸で江戸狩野派を開いた。当時、歌人絵付きの「歌仙手鑑」が大流行して特に上流階級の女性に愛好されるようになると、江戸城の城中でも将軍家の女性たちが享受することとなり、探幽には、この「歌仙手鑑」の制作という仕事を土佐派に独占させるのではな... 館長
二 百人一首歌仙絵の世界での指導権の争奪 (四)尾形光琳による改革の試み 百人一首の版本の改革者が菱川師宣であったとすれば、「百人一首かるた」の改革者は尾形光琳であった。「百人一首かるた」では、元禄年間(1688~1704)になると『像讃抄』の影響が増して古型から標準型へと転換したが、光琳はそれに不満を持ち、かるたを美術作品として描いた。光琳は元禄年間(1688~1704)の後期から宝永年間... 館長
二 百人一首歌仙絵の世界での指導権の争奪 (三)菱川師宣による改革の背景 ここできちんと確認しておきたいが、崇徳院は、後水尾朝廷によって「廃帝」とされ、天皇の系譜から排除されていて、公式には、幕末期に上皇位に復位が認められ、白峯神宮が創建されるまで名誉も神格も認められていなかった。師宣程度の町絵師がそれを勝手に復位させることなどは到底ありえない。逆に言えば、師宣が刷新を世に問うことができたの... 館長
二 百人一首歌仙絵の世界での指導権の争奪 (二)『小倉山百人一首』の書は『尊圓本』の模倣 『小倉山百人一首』の字配り (小野小町、 右:『尊圓百人一首』) なお、師宣は『師宣本』において、和歌本文の書については『尊圓本』の文字遣いをそのまま踏襲している。つまり、師宣の激しい先例批判の矛先は歌人名や和歌本文の書には向いていなくて、もっぱら歌人図像がターゲットになっていたのである。 すでに吉田幸一は、師宣が、延... 館長
二 百人一首歌仙絵の世界での指導権の争奪 (一)菱川師宣『小倉山百人一首』の百人一首絵改革 菱川師宣『小倉山百人一首』表紙(国会図書館本、延宝八年) だが、崇徳院の上畳の不在は歌人図像付きの「百人一首かるた」の始期を物語るとしても、上畳の問題はこれがすべてではない。これと逆に、元禄年間(1688~1704)に崇徳院のカードに繧繝縁(うんげんべり)の上畳が現れたことは、この頃に「古型百人一首かるた」が終期を迎え... 館長