豆本『うんすんかるた抄』山口格太郎、昭和四十二年
豆本『うんすんかるた抄』
(山口格太郎、昭和四十二年)

ここで救いになったのが熊本県人吉市内に残されていたうんすんカルタの遊技の発見である。ここにうんすんカルタが残存していることは昭和前期(1926~45)にはすでに知られていたが、それは、昭和十七年(1942)に三十歳で病没した球磨郡上村の空戸數義が病床で地方誌『球磨』に書き残した長文の解説[1]によるものであり、この地方での遊技者は、すでに上村で十数名、免田に七、八名、多良木に二、三名、それに人吉市内鍛冶屋町(宝来町)に何名かという程度に減少していた。昭和二十年代(1945~54)には滅びゆく遊技を惜しんで復活が試みられ、昭和二十七年(1952)に雑誌『日本談義』[2]誌上で空戸數義の遺稿が再録された。昭和四十年(1965)には熊本県指定の無形文化財に登録された。山口吉郎兵衛はこのことを知ることもなく昭和二十六年(1951)に死去しており、『うんすんかるた』には記載がないが、山口格太郎はこれを知り、昭和四十二年(1967)に豆本『うんすんかるた抄』[3]を著して「幸い人吉市近郊の部落に最近までこの遊技が行われていて現に無形文化財に指定されているので、それからもとの遊技法も想像出来るが」と紹介し、昭和四十八年(1973)にはアメリカ人研究者のバージニア・ウエイランドらの人吉市現地調査[4]にも協力した。これと別に昭和四十七年(1972)に雑誌『アサヒグラフ』[5]に多くの写真とともに紹介の記事が載った。これらが機縁になり、翌昭和四十九年(1974)に人吉市の木村力が義兄の木村松男の解説を文章にまとめて『ウンスンカルタの遊び方』[6]を人吉市教育員会から発行し、同じく昭和四十九年(1974)の平凡社『別冊太陽いろはかるた』[7]にウエイランド夫妻の人吉市現地調査の小論が山口格太郎訳で掲載されたこともあって、広く知られるところとなった。この頃、雑誌『えとのす』[8]も記事を掲載した。

人吉市周辺にうんすんカルタが伝わった機縁は不明である。空戸は「同地方に於ては、備前岡山より伝えられたものであると云い、一名備前カルタとも呼んでいる。(多分岡山池田家より相良家を継がれた第三十一代長寛(與國院殿)の時代なるべし)」としているが、現地でも事情はすでに不明になっている。木村は、寛文九年(1669)に藩主頼喬の夫人に京都から鷲尾大納言隆尚の娘が迎え入れられた際の嫁入り道具として持ち込まれたとする伝承と、明和六年(1769)伝承の二説を紹介している。

人吉市に伝わっているところでは、まず、札の呼称と順位は、「パオ」「イス」「コツ」「オル」「グル」の五紋標で、札は、強い順に「スン」「ウン」「レイ」「ウマ」「ソウタ」である。その下に「ロバイ」と「一」から「九」までの数札が続くのであるが、それは複雑で、ある紋標が切り札になると、その紋標の「ソウタ」と「ロバイ」の格が上がって「ウン」の次、「レイ」より上になる。また「ロバイ」は「一本半」と呼ばれ、切り札にならないときは「二」より弱く「一」より強い。だから、「長いもの」の場合は、「スン」から「カバ」に続いて「九」から「二」があり、次に「ロバイ」があって、最弱なのは「一」である。「丸いもの」の場合は、絵札に続いて「ロバイ」「一」「二」から「九」までになる。ロジカルには「一」「ロバイ」「二」の順位とも思えるが空戸の説明は違う。「ハウのロバイ」は「テン」と呼ばれ、常に切り札扱いである。

札の配分の仕方やゲーム開始時の話は江戸時代の文献史料と共通するところが大きい。また、ここでは遊技は左回り(時計回り)で行われており、これは江戸時代の文献の反時計回りと異なるし、およそ日本のカルタは反時計回りが本則であるので注意を引く。遊技法は江戸時代の文献と同じくトリック・テイキング・ゲームであり、「ヱ」と呼ばれる切り札の決め方や使い方なども似ている。トリック・テイキング・ゲームであるから手役や出来役はないし札に固有の点数の差もないが、同じトリックに出された札が特別な組み合わせであると「ヤク」が付き、それを「消す」方法もある。

こうした空戸の説明の中で私が特に関心を持った点は二つある。ひとつに、「天下取り」と呼ばれる三人でもできる遊技法が紹介されていることである。当然のことだが個人戦である。七十五枚の札を使う三人の遊技法が実際にあることが確認できたことは大きな意義がある。

もう一つは八人で行う個人勝負で「シリ取り」(別の部分では「シク取り」)と呼ばれる博奕系の遊技法である。『雍州府志』がいう博奕の戯としてのうんすんカルタはこういうものかなと思わせるところがある。空戸によれば、札一枚が一銭でも五銭でも十銭でもいいが、一銭の場合で説明すれば、最初に九枚の札を配分されるのだから九銭を出すことになり、「八人メリ」と同じ遊技法でゲームが進行し、一トリックを獲得すると八枚だから八銭が得られる。獲得する札が二トリック、三トリックと増えれば、十六銭、二十四銭と儲けが増えてゆく。八人で九トリックだから平均すれば一・一トリックの札が入手できて元が取れるはずであるが、技に巧拙があって損する者、儲ける者が出る。これはまさに博奕になりうる遊技法である。空戸は「詳細は解らない。現在ではこれを「ゴソゴソ」なる隠語で読んでいる様だが、それは、少数の相等相当?)年配の人たちに限られて居り」としている。なるほどこうすれば七十五枚のうんすんカルタでも博奕の戯に使えるのだと納得がいく。

なお、人吉市の現地では、古い時代のうんすんカルタの現物は残されていない。現在用いられている物は昭和五十四年(1979)に地元のウンスンカルタ保存会が制作した手製の札であり、それは昭和四十年(1965)に京都の大石天狗堂に特注で制作させた十組の木版カルタのコピーである。古老は、昭和初年の札を記憶していたが、それもどうやら当時の大石天狗堂のものと思われる。一方、任天堂には、明治二十年代(1887~96)の山内任天堂が制作したうんすんカルタの版木が残されている。私は、明治前期、中期(1868~1902)は任天堂が、明治後期(1902~1912)以降は大石天狗堂が札を提供してきたものと理解している。そして、うんすんカルタの遊技そのものは、「八人メリ」を中心に、保存会の努力で生き延びている。ポルトガルのドラゴンは、令和の今日でもなお人吉市の空を舞ているのである[9]


[1] 空戸數義「ウンスンの打ち方」、『球磨』、昭和十四年~十五年。(但し、実物で確認できていない。)

[2] 空戸數義「ウンスン歌留多の遊び方(遺稿)」、『日本談義』、昭和二十七年七月号八〇頁、八月号六六頁、九月号五六頁。

[3] 山口格太郎『うんすんかるた抄』、滴翠美術館、昭和四十二年。

[4] Masako Okusu and Virginia and Harold Wayland “Unsun Karuta The Rules for the Game as Played in HITOYOSHI City, KYUSHU, Japan” Private Edition, 1981.

[5] 『いまに残るウンスンカルタ』アサヒグラフ2510号、昭和四十七年、四〇頁。

[6] 木村力『ウンスンカルタの遊び方』、人吉市教育委員会、昭和四十九年。

[7] ハロルド・ウェイランド、ヴァージニア・ウェイランド、山口格太郎訳「オンブルからウンスンへ」『別冊太陽いろはかるた』、平凡社、昭和四十九年、一八八頁。

[8] 高田素次「ウンスンカルタの由来と遊び方」『えとのす』第二号、新日本教育図書、昭和五十年、一〇八頁。

[9] 鶴上寛治「楽しく遊べる人吉のウンスンカルタ」『郷土文化誌「KUMAMOTO」』、くまもと文化振興会、平成三十年、一二〇頁。

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