花札の歴史が大きく転換したのは、木版の「武蔵野」が開発されたことによる。これがいつ頃に市場に登場したのかは分かっていない。清水以降の通説は、これが寛政の改革によるめくりカルタの代用品であると理解していたので、開発に若干の時間を要して、文化年間(1804~1818)頃に登場したであろうと想像して説明していた。しかし、適切な文献史料が存在しないので、それの初出である、天保二年(1831)に娘浄瑠璃の席での花札販売を禁止した禁令を根拠に、天保年間(1830~44)頃までに成立したという説明になっていた。これに加えて村井省三は、「文政、天保年間の大坂年代記である「摂陽奇観」の文政二年(1819)の頃に『当春花合停止』とあるから、少なくとも文化十五年(1818)以前には存在しており、庶民の間で使われていたということだ」という論拠を示して、説明を強化した。

武蔵野
武蔵野(滴翠美術館蔵、江戸中期)

しかし、その後の研究の進展により、今日では「めくりカルタ代用品説」そのものが事実ではないと否定されており、従って、木版「武蔵野」が寛政年間(1789~1801)以降の産物であるという理解も否定されている。そもそも、江戸時代の文献史料には、花札が博奕の用具として禁止されたとするものは存在せず、処罰例もない。良く引用される天保二年(1831)の花札売買の禁止令も、当時の江戸の町では数十の店で半ば公然と花札が販売されていたのに、その事実は一切追及せずに、町民の素人娘が稽古ごとの発表会の席で酒を提供したり花札を販売したり、果ては売春まがいの行動に出ることを禁止したものであり、その趣旨は、博奕の禁止ではなく、年頃の娘の出入りする場での風紀の乱れを警戒するものであった。村井が引用した濵松歌國『摂陽奇観』には、文政二年(1819)の正月の項に「當春 花合停止 武蔵野ともいふ歌留多也」とあるが、当時の大坂の奉行所の記録、町触の記録などにこの記述に関係する文章は一切確認できず、口触れであったのか、あるいは一部の役人の個人的な指示であったのか、だれがどの資格で、どのように、どの範囲で停止したのか、その趣旨がよく分からない。これは一民間人のメモであり、同時期の記録類でこの事情に触れるものが見当たらないので、信頼性に欠けるところがある。 

武蔵野の制作者「本家春」
武蔵野の制作者「本家春」
(左:滴翠美術館蔵、江戸中期、右:江戸後期)

一方、物品史料の方では、私が見る機会のあったものは、① 滴翠美術館蔵の緑色 の顔料も用いたごく初期のもの、②個人蔵の、赤色と紺色を用いた少し時代の降るもの、③ 私が骨董市で発見したもの 、の三個である。私は、滴翠美術館蔵のものが三者の中では最も古いと考えている。②と③はほぼ同じ時期のもので、いずれも元箱に収納されて伝わっている。②は紅葉の札四枚が欠けているが、③は全部の札が揃っている点が唯一の違いと言っても良い。

これらの「武蔵野」の製作者は、滴翠蔵のものでは芒に月の札に、②と③では収納箱の蓋の表題紙に「本家春」とあり、江戸時代中期の京都のカルタ屋、井上家春(松葉屋家春)製かそのデザインを後追いしたものであることが分かる。私は、最初、山口格太郎から、『明和新増京羽二重大全』[1]に「哥かるた所五条通烏丸東江入町 井上家春」とあることを教わった。明和年間(1764~1772)の歌かるた屋「井上山城」(賭博系カルタ屋としての店名は「松葉屋」)の主人は家春であったのであり、この時期の前後に同店から売り出されていたものであろうと推測している。つまり、木版の「武蔵野」は、寛政の改革よりも二十年ほど以前の時期から存在していたのである。私は、主として彩色の違いから、滴翠美術館蔵品が江戸時代中期(1704~89)のもの、②と③が江戸時代後期(1789~1854)の後追い品と考えている。


[1] 北村正光「京羽二重大全」『立命館大学図書館所蔵善本復刻叢書(第1期)近世風俗・地誌叢書全十五巻』第六巻、龍渓書舎、平成八年、一三九頁。

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