二 「南蛮カルタ」研究史の軌跡

宮武外骨『賭博史』表紙
宮武外骨『賭博史』表紙

日本にカルタの遊びが伝来したのは戦国時代の16世紀後半、ポルトガル船の来航の時期である。しかし、この時期の伝来を明らかにする史料は、文献史料、物品史料、伝承のいずれも絶望的に貧しく、その実態は知ることができなかった。

この遊戯に用いる1組48枚のカルタ札は鎖国の時期にオランダからもたらされたと、従来の研究者の間では考えられていた。1923年刊の宮武外骨『賭博史』は、「カルタ」という言葉はポルトガル語由来であるとしたものの、外国カルタは「阿蘭陀(オランダ)人より傳來」としていた。

『南蛮更紗』表紙
新村出『南蛮更紗』表紙

これを一変させたのが1924年刊の新村出『南蠻更紗(なんばんさらさ)』に収録された前年の論文「賀留多の傳來と流行」である。新村は、カルタ用語の分析を基礎に、「天文年間、西暦でいふ1540年代の末期には既に日本人はカルタの遊戯に接したとみることが出來る。それのみならず、葡人渡來以前と雖も、日本人は、南支那なりマラッカ邊なりの海外の港においてこの戯を學んで日本へ傳へたと推定し得ないことはない」とした。

阿部徳蔵『とらんぷ』
阿部徳蔵『とらんぷ』

カルタ伝来史の研究水準を一気に上昇させたのは、昭和前期のカルタ奇術研究者の阿部徳蔵である。阿部は、日本のカードマジック業界の主役の一人であり、欧米のマジック技術を日本に導入して、自ら実演して普及させることで大きな貢献があった。阿部は研究に熱心で、欧米のカルタ奇術の文献を広く渉猟していたが、彼の関心は奇術の範囲を超えてカルタ文化の全般に及び、当時日本で読むことができたカルタ史の欧米の文献にもほとんど眼を通していたと思われる。そして、そうした研究の成果をまとめたのが、1938年に出版された『とらんぷ』である。阿部はここで欧米の基本文献を広く活用しており、日本のカルタ史研究は、阿部の尽力で欧米の研究を射程に入れられるところまで追いついたのである。

阿部は『とらんぷ』で、日本には、ポルトガル又はスペインから、一組四十八枚のカルタが伝来したことを説明し、次いで、それが日本国内で一組七十五枚のうんすんカルタに発展したと説いた。阿部によれば、「とにかく歐羅巴の札に於いては、一組が五種類に分れてゐることと、その各々に、繪札が六枚づつあるといふことは絶對にないことである」(109頁)。そして阿部は、欧米の文献に掲載されている古い時代のカルタ札の図像を基に、それが日本でどのように五紋標、七十五枚に変化したのかを探求した。

これは、「うんすんカルタ日本国内発明説」(国内説)であるが、今日では、ヨーロッパの古い時期のカルタ遊技に「一組が五種類に分れていること」があったらしいことは文献上は明らかであるし、カルタ発祥の地中国では、今日に至るまで五紋標のカルタ札とその遊技が伝えられているから、阿部の前提は成り立たない。また、もう一つ不運だったのは、当時、日本国内で利用可能なカルタ札の学術史料は、『うなゐのとも』七篇に「うんすん加留多七十五枚」として掲載されている図像だけであったところ、同書を編集した西沢笛畝が誤って、「コップ」を「をふる」、「オウル」を「こつふ」と説明してしまったことである。阿部はこれが江戸時代の山崎美成『博戯犀照』などの文献と相違することを認識していたが否定できず、説明は混乱している。

このような欠陥にもかかわらず、阿部の研究は、日本の「カルタ」史研究では時代を画する大きな成果であった。何よりも、欧米の最新の研究をフォローして活用したことが、戦後のカルタ史研究に決定的に影響したのである。私は、昭和後期の研究では一人別次元の優れた業績を残した山口吉郎兵衛は、阿部の著作から欧米の研究状況を知り、自分でもそこに学んで、ドラゴンカードに着目したポルトガル船伝来説を確立した名著『うんすんかるた』を表わしたものと想定している。いわば、大正期に研究の種が蒔かれたカルタ史研究は、昭和前期に阿部が受け継いで国際水準に近づけ、それを昭和後期の山口吉郎兵衛の研究につなげて、花開いたということであろう。そして、山口吉郎兵衛の息子、山口格太郎は、カルタ史研究の国際的な協力のネットワークを構築した。こうした研究史の流れの中で、阿部徳蔵の業績は忘れられてはならないものである。

『うんすんかるた』表紙、裏表紙
山口吉郎兵衛『うんすんかるた』表紙、裏表紙

そして昭和前期の蒐集家、研究者であった山口吉郎兵衛は、1951年の死去から10年を経て、1961年に子息の山口格太郎によって追善出版された私家版『うんすんかるた』において、生前、第二次世界大戦中の暗い社会で、学術の研究には不都合な事情が多かった時期に、兵庫県芦屋市の自宅にこもって新村説を熱心に考証し、当時世界最高の研究書であったCatherine Perry Hargraveの“A History of Playing Cards and a Bibliography of Cards and Gaming”などの基礎的文献史料も駆使して、ポルトガルのカルタはで「Paus(こん棒)」「Espadas(剣)」「Copas(聖杯)」「Ouros(金貨)」の4紋標の「一」の札、つまりエースにドラゴンの画像があり、それはポルトガルのカルタ屋Inferrera社に独特のデザインであり、その「南蛮カルタ」が伝来して、4紋標が「ハウ(こん棒)」「イス(剣)」「コップ(巾着)」「オウル(貨幣)」と呼ばれる日本国産のカルタになったとする革新的な学説を執筆した。この山口吉郎兵衛による「Inferrera社製カルタの伝来」説は衝撃的であり、1970年代にはカルタ史研究者の世界で支配的な通説となり、それに異を唱える者はまったく登場しなかった。

ハーグレイブ『カルタの歴史、カルタと賭博の書誌』
ハーグレイブ『カルタの歴史、カルタと賭博の書誌』
ドラゴンカルタ・インフェレール社製
ドラゴンカルタ・インフェレール社製
ドラゴンカルタ・ポルトガル
ドラゴンカルタ・ポルトガル

そして、「南蛮カルタ」の研究史は、その後、国際的な色彩を帯びるようになった。まず、イギリスの蒐集家で研究者のSylvia Mannとアメリカの研究者Virginia Waylandは、大航海時代にポルトガルの貿易船が活躍した、アフリカ、ペルシャ、インド、東アジア地域と、南米のブラジル地域のカルタ史を詳細に研究して、これらの地域にはいずれも「1」の札にドラゴンの図像を配したドラゴンカルタが以前に存在していた痕跡があり、一方、同時期にスペインの植民地となった諸地域にはそういう物の伝来の痕跡がないと判断した。したがって、ドラゴンカルタは、Inferrera社の製品の特徴にとどまらなくて、ポルトガルのカルタに共通するこの国の「地方札」に固有のデザインであり、それがポルトガル船によって全世界に運ばれて流行したとするのがMannとWaylandの結論であった。

マン『ポルトガルのドラゴン』表紙、裏表紙
マン『ポルトガルのドラゴン』表紙、裏表紙

この「ドラゴンカルタ・ポルトガル起源説」には、全世界に広がる壮大なスケールの伝承の歴史という夢がある。1973年に出版された共著書の “The Dragons of Portugal”は全世界のカルタ史研究者に熱狂的に歓迎され、当時ロンドンに滞在していた私も含めて多くのカルタ史研究者がMannの周囲に集まった。同年に、カルタの歴史を世界各地のregional pattern(「地方札)というカテゴリーを基軸にして学術的に研究する人々の集団、Sylvia Mann SchoolによってPlaying-Card Society(PCS、のちにInternationalを冠してIPCS)が形成された。日本からは、山口格太郎、村井省三と私が参加し、私が日本支部代表であった。私は毎年開催された研究者会合に参加するために何回も渡欧し、あるいは渡米した。またSylvia Mannに招待されてイングランド南部、ケント州Rye市郊外の邸宅を訪れて、その圧倒的なコレクションを見学し、Sylvia Mannと、同居者でIPCSのメンバーであるAdrienne Gurrと三人で、それこそ食事も忘れてカルタ談議に果てしなく耽った日々のことは今でも記憶に鮮明である。

なお、当時、欧米でのカルタ史研究のもう一つのセンターが、南ドイツ、シュツットガルト市近郊にあったDeutsches Spielkarten Museumである。主任のキューレーター、Margot Dietrichは、Sylvia Mannと並ぶICPSのもう一人の中心人物であったが、同博物館を訪問した私には、そこの正規のスタッフの一員のようなまったく自由な研究、調査を許容してくれた。彼女の尽力で、同博物館はすでに1969年に東アジアのカルタの展示会を開催し、オーストリアのGernot PrunnerとドイツのDetlef Hoffmannを起用して学術的な展示会目録 “Ostasiatische Spielkerten” を刊行し、欧米での日本かるた史研究を先導していた。私は、この書から多くを学び、博物館の日本カルタ・コレクションを自由に調べ、Margot Dietrichや私と同年代のDetlef Hoffmannとも会うたびに特に親しく議論を交わした。二人とも世界で有数の優れた研究者であり、まったくの初学者であった私には今でも信じられない幸運な出会いであったと思う。

『東アジアのカルタ』表紙、裏表紙
プルナー『東アジアのカルタ』表紙、裏表紙
ホフマン『カルタ』表紙・背表紙
ホフマン『カルタ』表紙・背表紙

日本は、この「ポルトガルのドラゴン」の歴史ドラマではクライマックスの地であった。ドラゴンカルタは一九世紀までにすでに世界中で寿命を終えており、わずかな遺物で過去を偲ぶより仕方がなかった。しかしはるか極東の島国にそれが今なお生き残っていて実際に遊戯に使用されていたのである。その発見は、コモロの海で古代魚のシーラカンスが生存することを発見した古生物学者、あるいは化石でしか見たことのない古代樹木メタセコイアが中国四川省の山地で現生していることを知った考古学者のような興奮の渦をカルタ史研究者の世界で生んだ。さらに、京都では一六世紀に伝来した当時のカルタ製造法そのままに手刷り、縁(へり)返しのカードが製造されていることも発見されて、ニュースが伝わり一層の興奮を呼んだ。MannやWaylandを始め、ドイツのDetlef Hoffmann、スイスのMax Ruh、イギリスのGeorge Hatton、Yasha Beresinerなどの研究者が来日して調査を行い、私も彼らを東京の博物館や京都のカルタ屋などの諸施設に案内して調査に協力した。Wayland夫妻は、はるかに遠い九州、熊本県人吉市を訪れ、現地に残る「うんすんカルタ」遊技グループの実演を見学、記録している。

デニング『スペインのカルタ』表紙
デニング『スペインのカルタ』表紙

その後の学説の発展もSylvia Mann Schoolの中から起った。Mannとも親しく、私とも交流のあったIPCSのメンバー、イギリスの研究者、Trevor Denningは、1970年代にスペインも含めたイベリア半島全域での「地方札」の歴史を調査して、ドラゴンカルタは、ポルトガル一国の範囲にとどまらなくて、十六世紀の末期まではイベリア半島各地と海外の植民地の「地方札」に共通するデザインであったことを発見した。Denningは「ドラゴンカルタ・イベリア半島全域起源説」を1980年に著書 “Spanish Playing-Cards”で報告した。この報告は歓迎され、Sylvia Mann Schoolのメンバーたちによって、この学説の真偽を検証する史料探索の調査が起り、スペイン、イタリア、そして南米の旧スペイン植民地などでのドラゴンカルタの物品史料と文献史料の発掘も成果を上げた。ドラゴンカルタ探索のカルタ史研究は地球規模の研究課題に広がったのである。

ダメット『タロットの遊技』表紙・裏表紙
ダメット『タロットの遊技』表紙・裏表紙

また、同時期に、やはりIPCSのメンバーでしたしく交際していたイギリスのMichael Dummettは、Sylvia Mannの支援を受けつつ、大著 “The Game of Tarot” 表わして、「ラテン系カルタ」の遊戯の歴史を詳細に報告した。Dummettは、さすがに近代哲学史、とりわけフロイトやフレーゲの研究で世界有数の研究者らしい綿密な考証と説得力のある学説を展開しており、Denninngの学説を支持してこの方面の研究の基礎を強化した。Dummettは、その後も、2004年に“A History of Games Played with the Tarot Pack: The Game of Triumphs” を表わすなど、この分野での貢献を続けた。

そして、この説の提唱者であるDenningはさらに調査を深め、かつてアラゴン連合王国の主要な中心地であった地中海のマルタで、16世紀以降のドラゴンカルタの製造、普及の痕跡となる、カルタの残欠、木版版木、未完成に終わったカルタのシートなどを発見した。また、Inferreraがほかならぬマルタのカルタ屋であったことを示す物品史料も発見した。Denningのたどり着いた結論は、カルタは14世紀後半に、交易関係の深かったアラビアからマルタに入り込み、そこから、アラゴン連合王国の全領域に普及し、さらにヨーロッパ各地に拡散していったという歴史イメージであった。「ハウ」、「イス」、「コップ」、「オウル」の4紋標で構成される、いわゆる「ラテン系カルタ」が普及したのは、南イタリア、フランス南部の地中海沿岸地域・コートダジュール、この海域の島々、そしてイベリア半島であるから、この「ドラゴンカルタ・マルタ中心地域説」にはなかなかの説得力がある。

そしてその後に、こうした学説の発展と矛盾するものではないが、「南蛮カルタ」の研究では極めて重要な発見があった。1980年代にベルギーのAntwerp市で16世紀に建造された古い教会の建物を取り壊していたところ、壁紙の芯材に木版かるたの骨摺りの廃棄物が使われていたのである。このニュースは、IPCSのメンバー、ベルギーのAndre Kintによって学界にもたらされた。これは、16世紀に同地のカルタ屋が製作していたドラゴンカルタの重要な存在証明であり、壁紙に転用されて使用されて壁の中に封じ込められた年限を下限とするこの世紀のものであることが明確であった。この物品史料は、わずかに十数枚分のカードの画像しか残っておらず、その残されたものには欠け落ちた部分が目立ったが、読み取れたわずかな情報からでも、それが精緻な木版カルタであり、日本の「木版天正カルタ」の図柄ととてもよく似ていると分かった。この発見から、私は、ポルトガル船がもたらした「南蛮カルタ」はベルギー製であったのではないかという問題関心を持つようになった。

考えてみれば16世紀のベルギーはスペイン王家の領土であり、手工業が盛んで、製品をスペインやポルトガルで販売していた。そこは、当時は先進的な木版印刷業の世界的なセンターであり、スペインやポルトガルにはない精緻な製品を産出していた。だから、顧客の好みを反映してポルトガルのカルタのデザインを採用したベルギー製のカルタがあって当然であるし、それがポルトガルで売りに出されて、貿易船に積まれてはるばるアジアにもたらされて、拠点のジャワ島、バタビアに到着していても不思議ではない。日本に来航したポルトガル船が、本国でカルタを仕込んだのか、バタビアで日本向けに出航する際に買い求めたのかは分からないが、いずれにせよ、ベルギー製のドラゴンカルタ、「南蛮カルタ」が日本にもたらされた可能性はきわめて高い。

ベルギー国立カルタ博物館
ベルギー国立カルタ博物館

現地では、その後もカルタ製造は活発に行われており、一般向けの安価なカードの制作は盛んであった。そして20世紀後半、1969年には、ベルギーの代表的なカルタ製造業者のCarta Mundi社の所在地であるAntwerp州Turnhout市内にNationaal Museum van de Speelkaart(「国立カルタ博物館)が設立された。同市はこれに協賛し、市内にある16世紀の建物Huis metten thorenを展示会場として提供したので、この古建築で博物館は無事に開館したが、当時はまだ16 世紀の自国産の木版ドラゴンカルタを蒐集することはできなかった。

三池カルタ復元品
三池カルタ復元品

その後、1991年に、450年前に日本初の国産「三池カルタ」を制作した地であることを記念して、福岡県大牟田市立の「三池カルタ記念館」(以下、「三池カルタ館」と略記)が設立された。同館は開館にあたって、「三池カルタ」の復元を志し、完成させた。その際には、顧問であった私は市の担当職員とともにスペイン、ポルトガルやベルギー現地まで出かけて「南蛮カルタ」の史料や消息を広く探索したがはかばかしい成果はなかった。ベルギーのNationaal Museum van de Speelkaartも訪れて、こういう建物の中で16世紀の「南蛮カルタ」は製作されたのかと感慨にふけったが、そこまでであった。「南蛮カルタ」の正体は不明のままで、この時から長い時間が経過した。

なお、21世紀に入って、「天正カルタ」の史料探索では若干の進展があった。山口吉郎兵衛の『うんすんかるた』には、20世紀前半の東京で定期的に開催されていた歴史史料愛好家のグループ「集古會」の会合に出品され、同会の機関誌『集古』第5集で報告された「うんすんかるた」に関する記述がある。これは財閥・安田家の「安田松廼舎(まつのや)文庫」が所蔵した江戸時代初期の「三池カルタ」で、1組48枚が出品されたものと思われるが、関東大震災で焼失していて、物品史料としてはもはや活用できず、『集古』誌上に掲載されている、清水晴風が描いたカードの表裏5枚の模写図が唯一の利用可能な図像史料であった。

三池カルタ模写図・清水晴風手控帖
三池カルタ模写図・清水晴風手控帖

ところが、21世紀にはいって、清水晴風の残した自筆の手控帖が古書市場に出現し、その史料的な価値の高さを知った人形玩具史研究の有志がグループを作って購入し、東京都台東区浅草橋の「吉徳」資料室に保管された。そしてそこを見ると、『集古』第5集の報告の元となったであろうと思われる「三池カルタ」模写図9枚があった。また、これのほかに、これと別の頁に、同じく「安田松廼舎(まつのや)文庫」蔵の、別の「天正カルタ」1組12枚の図像が掲載されていた。合計すると、表面の図像が20枚、裏面の図像が1枚である。それまでは、江戸時代初期の木版「天正カルタ」、つまり「三池カルタ」の図像としては、わずかに滴粋美術館所蔵の「ハウ」の「キリ」の札1枚と『集古』誌上の図像4枚、裏面の図像は2枚しか見ることができなかったのであるから、「三池カルタ」「天正カルタ」の研究にとっては大きな可能性が開いた。そして、その研究を行っている最中に、Nationaal Museum van de Speelkaartによる「ドラゴンカルタ」の情報公開が生じたのである。

天正カルタ模写図・清水晴風手控帖
天正カルタ模写図・清水晴風手控帖
三池カルタ模写図・『集古』
三池カルタ模写図・『うなひの友』


¹ 宮武外骨『賭博史』、半狂堂、大正十二年、一八頁。

² 新村出『南蛮更紗』、改造社、大正一三年、一〇三頁。

³ 阿部徳蔵『とらんぷ』、第一書房、昭和十三年。

⁴ 山口吉郎兵衛『うんすんかるた』、リーチ(限定私家版)、昭和三六年。

⁵ Catherine Perry Hargrave,“A History of Playing Cards and a Bibliography of Cards and Gaming”, Houghton Miffrin Company, 1930 . 

⁶ Sylvia Mann & Virginia Wayland, “The Dragons of Portugal”, Sandford, 1973.

⁷ 斎藤清明『メタセコイア』中公新書、中央公論社、平成七年。

⁸ ハロルド・ウェイランド、ヴァージニア・ウェイランド「オンブルからウンスンへ」『別冊太陽いろはかるた』、平凡社、昭和四十九年、一八八頁。

⁹ Trevor Denning, “Spanish Playing-Cards”, IPCS, 1980.

¹⁰ Andre Kint,“An Important Discovery in Antwerp” , IPCS Journal Vol.13 No.2(1984), p.45.

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